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「熊野林業」第11号

記事の掲載について

公益財団法人熊野林業が発行する機関誌『熊野林業』について

第11号の記事(青字)をこちらに掲載しています

※記事内容や執筆者肩書につきましては発行時のものとなりますのでご了承ください



『熊野林業』を無料で配布しています

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番号 題名 執筆者
1 屋久杉大国 日本林業協会 相談役 塚本 隆久
2 田長谷の植物・1 熊野自然保護連絡協議会 副会長 瀧野 秀二
3 熊野のイトトンボ 熊野自然保護連絡協議会 副会長 南 敏行
4 奇跡を見る道具 和歌山大学システム工学部 准教授 松田 紀行
5 南紀のゾウムシ類 和歌山県立自然博物館 学芸員 的場 績
6 林業の現場で森に育てられた物語 浦木林業株式会社 現場指導員 井戸 伸一
7 大震災を乗り越えて 財団法人熊野林業 会長 浦木 清十郎
8 子供達と植樹事業 財団事務局
9 非皆伐施業参考林分 財団事務局

2 田長谷の植物・1 熊野自然保護連絡協議会 副会長 瀧野 秀二

 田長谷で見られるツツジ科・ツツジ属(Rhododendron)の植物
 
 前回、熊野林業第8号では「熊野地方の植物相」と題して熊野地方の植生や植物相について概略を述べさせていただきました。熊野地方は他に例を見ないほど植物の豊富なところです。その代表的な場所の1つに田長谷から白見山、さらに大雲取山へと続く900mの稜線があります。豊富な降水量と複雑な地形に恵まれたこの地域には多種多様な植物が生育しています。まだまだ調査不足で、全体は把握できていませんが、ツツジ科ツツジ属の植物から紹介していきたいと思います。ツツジ科の植物は矮小な低木から小高木まで、すべて木本です。日当たりのよい岩地や風当たりの強い場所を好んで生えるものが多く、酸性土壌を好む傾向もあります。日本には約22属108種が分布し、ツツジ属は最大の属で52種が知られています。田長谷周辺で見られるのは次の8種です。

 ヒカゲツツジ

 関東以西の本州と四国、九州に分布する常緑低木で、高さは1~2m、川岸の岩壁や岩尾根などに生えます。葉は互生して枝の先端に集まってつき、幅約1.5cm、長さ約7cmの長だ円形で薄い革質をしています。4月の中頃葉の展開とほぼ同時に枝の先に2~6個の花を咲かせます。花の色はツツジでは珍しく淡い黄色で、上側の花弁には緑色の斑点があります。田長谷では4月初旬、鼻白の滝周辺から咲き始め、中旬には中腹の林道沿い、下旬から5月の初めにかけては尾根筋で見ることができます

 バイカツツジ

 北海道南部から本州、四国、九州の広い範囲に分布する落葉低木で、山地の林縁に生育して高さは2mほどになるが、あまり目立たないツツジです。7月初旬、花は枝の先端にある葉の下に隠れるように咲きます。直径2cm程の小さな花で、花弁は白色で反り返るように開き、上側に紅紫色の斑紋があります。ツツジの仲間では例外的に半日陰を好み、田長谷でも森林自然公園入り口から少し登った林道沿いで見ることができます。名前の由来は小輪で清楚な花をウメの花に見立ててつけられたものです

 モチツツジ

 静岡県から岡山県までの本州と四国に分布する半常緑低木で、高さは1~2m、低山や丘陵地の林縁や道ばたに生育しています。熊野地方ではごくふつうに見られるツツジですが、全国的には分布域が狭く近畿地方が分布の中心です。植物体全体に毛が多く、特に花柄やがく片には腺毛が密生して粘り、虫がくっつけられるほど強い粘りです。モチツツジの名前もこのように鳥モチのように粘ることから、つけられています。他のツツジと比べて花柄やがく片が長いのも特徴で、2cm以上になるものもあります。花は淡紅紫色、直径5~6cmの漏斗状で葉の展開と同時に枝先に2~3個つけます。花の最盛期は4月中旬ですが、暖かい熊野地方では真冬に花を咲かせているのを見かけることがあります。田長谷でも麓から尾根まで林道沿いの随所で見ることができます。また、モチツツジは他のツツジと雑種をつくりやすく、田長谷林道の中腹付近でウンゼンツツジとの雑種と思われる花の小さいモチツツジを見かけることがあります。

 ウンゼンツツジ

 温暖で雨の多い伊豆半島から紀伊半島、四国東南部さらに九州南部(大隅半島)の林縁や岩地に生育する半常緑の低木です。おそらく熊野地方が分布の中心と思われ、熊野酸性岩の分布する古座川周辺から那智山系、大雲・白見山系、子の泊山、妙見山を経て、尾鷲市にかけての山地に特に多く見られます。
 ウンゼンツツジは熊野地方ではコメツツジ(米ツツジ)の愛称で親しまれてきたツツジです。今でもコメツブツツジとかコメツツジとか呼ぶ人は少なくありません。葉が小さくせいぜい1cmほどの米粒大であることから、そう呼ばれているものと思われます。しかしながら現在ではコメツツジの名は温帯上部の1500m以上に生育する全く別のツツジに与えられ、熊野地方で見ることはできません。
 ウンゼンツツジのウンゼンは長崎県の雲仙岳を指しますが、ウンゼンツツジは雲仙岳には分布していません。ウンゼンツツジは江戸末期にはコメツツジと呼ばれていましたが、明治の中期にウンゼンツツジの名に入れかわり、雲仙岳のものはミヤマキリシマと呼ばれるようになったそうです。ウンゼンツツジをコメツツジと呼ぶのは、まったく根拠の無いことでもないのです
 葉が小さく、刈り込むと多くの細い枝を出し、形を整えやすいところから、盆栽の愛好家に好まれブームの頃には盗掘が耐えませんでした。
 花は他のツツジ類と違って、1つの花芽から1つの花を開きこの点はサツキと同じです。花の色は薄いピンクから紫に近い濃いピンクまで変化に富んでいます。田長谷林道脇でも、4月下旬山麓から咲き始め、5月中旬にかけて花の最盛期を迎えます。

 ヤマツツジ

 北海道南部から本州、四国、九州に分布する半常緑低木で、高さは1~3m、山地や丘陵の林内、林縁や草地に生育します。野生のツツジでは分布域が広く、日本人にもっとも親しまれているツツジです。ヤマツツジは花の色が朱色であることや、雄しべの数が5本であることなどから川岸に咲くサツキとよく混同されます。ヤマツツジは1つの花芽から2~3個の花をつけることや、葉の展開と同時に花が咲くため花期は4月であること、さらに、春に出る春葉のほうが夏にでる夏葉より大きいことなどの特徴があります。これに対してサツキは1つの花芽につく花は1個で、新葉が伸びたあとに花が開くので開花時期はツツジより遅く5月であり、また春葉と夏葉の大きさに差がなく、葉の表面には光沢があることなどで見分けがつきます。ただ同じヤマツツジでも山麓に育つヤマツツジは葉の展開がやや早く、新緑の春葉の中に朱色の花を咲かせます。これに対して尾根付近のヤマツツジは前年の夏葉が僅かに残った枝先に花をつけるので、朱色の花が鮮やかでよく目立ちます。田長谷ではこれら2つのタイプのヤマツツジを見ることができます。

 トサノミツバツツジ

 名前のとおり葉が枝先に3枚輪生するツツジの仲間で、熊野地方ではトサノミツバツツジの他コバノミツバツツジ、オンツツジの3種が分布しています。このうちコバノミツバツツジは白浜町など西牟婁地方では多く見られますが、熊野地方では少なく熊野川町宮井付近でわずかに見られるだけです。またオンツツジは海岸に近い疎林に生え、4月中旬から下旬にかけて、葉の展開と同時に朱赤色の花を咲かせます。
 ミツバツツジの仲間は子房や花柄に腺点があって粘るか、長毛のみで腺点がなく粘らない、の2つのグループがあり、トサノミツバツツジは前者に、コバノミツバツツジやオンツツジは後者に属します。ミツバツツジの変種とされるトサノミツバツツジとの違いは雄しべの数で、ミツバツツジが5本であるのと、子房は腺点のみが密生するのに対し、トサノミツバツツジでは10本で、子房には腺点の他白毛が混じります。ところが熊野地方で見られるミツバツツジはこれらの中間型が多く、雄しべの数も6~10本と様々です。これはミツバツツジ分布域が東海地方で、トサノミツバツツジの分布の中心が四国であり、紀伊半島南部はその中間にあたるためと思われます。トサノミツバツツジの開花時期は早く、海岸部では3月の中旬から咲き始め、田長谷でも4月初めから徐々に上部の尾根に向かって咲き出します。葉が展開する前、よく分岐した多くの枝先に2~3個の紅紫色の花を咲かせるため、遠くからでもよく目立ちます。トサノミツバツツジは早咲きのヤマザクラとともに熊野地方に春を告げる花といえます。

 アケボノツツジ

 紀伊半島と四国に分布する落葉小高木で樹高は3~6mに達し、ツツジの類では大型のものです。近縁のものには福島県から三重県御在所岳に分布するアカヤシオや九州に分布するツクシアケボノツツジがあります。いずれも雄しべが10本で、上の5本は短く下の5本が長いのは共通ですが、アカヤシオの雄しべの基部には10本すべてに軟毛があるのに対して、アケボノツツジでは短い5本の基部にのみ軟毛があり、ツクシアケボノツツジは10本すべてが無毛、という違いがあります。アケボノツツジは紀伊半島では標高900m以上の岩の多い斜面や尾根の崖地に生育しています。4月末から5月初め頃、枝先に直径約5cm、杯形で広く開く淡紅紫色の花を1~2個付けます。多くの枝を出すことや葉が展開する前に花を咲かせるため、木全体を花が覆って見応えがあります。また、他の樹木が育ちにくい岩場に生育するため、群生することが多く山がピンクに染まります。
 熊野地方でアケボノツツジを見るためには、大塔山、法師山、烏帽子山などで2~4時間山登りをしてやっと出会えるのがふつうです。ところが田長谷では林道が整備されたおかげで、車を降りて10分程ですばらしい光景に出会えるのです。

 ホンシャクナゲ 

 新潟県以西の本州と四国に分布する常緑低木で、樹高は2~6m、幹の直径は大きいもので10~15cmになります。葉は幅約3cm、長さ約15cm、長だ円形で革質で厚く、表面は濃い緑色で光沢があり、裏面は褐色の軟毛が一面に生え薄茶色をしています。また葉は互生して枝先に集まってつき、その先に丸く大きな花芽ができます。そして5月中旬、この花芽から紅紫色~淡紅紫色の花を横向きに多数咲かせます。1つの花の直径は約5cmの漏斗状で7裂し、雄しべは14本あって基部や子房には毛が密生しています。母種のツクシシャクナゲとは葉の裏にある褐色の軟毛の多さや、雄しべの基部にある毛の違いで分けられます。ふつうは標高500m以上の痩せ尾根や岩場に生え、ヒノキとともに生育していることが多く、ヒノキ―シャクナゲ群集と呼ばれ、田長谷でも随所でこの群落を見ることができます。

6 林業の現場で森に育てられた物語 浦木林業株式会社現場指導員 井戸 伸一

 私は、16才から山仕事について以来、60年あまりの長期に渡って森の中で仕事を続けてきました。これほど長く山の仕事を続けられるとは思ってもみませんでした。
 
 当初は、終戦直後のことで配給制度の中にあって、食べることにも事欠ける大変な時代でした。そんな状況でしたので、山の仕事以外にこれといった仕事がなく、また住宅復興の気運が高まる中で自然と山の仕事に就くようになりました。

 とにかく、がむしゃらに仕事をすると共に、早く仕事をおぼえるために懸命に勉強してゆくうちに、徐々に自分の天職へと向かっていました。

 62年間森で学んだ事を振り返りますと、初めは木材の伐採現場で父親についてまわっていました。父親の口癖は「人様に教えてもらうのでなくて、先輩たちの技術や技能などをよく見て習え」というものでした。そんな訳でとにかく人には負けないようがむしゃらに努力を積みあげてゆきました。

 25才までの10年間は、伐採に始まり次に出材、木よせ、いかだ組み、いかだ乗りなど一通りの仕事を習得してゆきました。26才になったとき今度は叔父の下で働くことになり、木材の商売(販売)の手伝いをしながら、材木の売り方の勉強をするはめになりました。同じ林業の事なので簡単な事かと思っていましたが、いざやってみると、第一に相手方との交渉が多く、これがなかなかの問題でした。木材の売値がいくらで、その費用がどれくらいかかって、残り分が山主に支払われるという一連のことを頭に入れながら、買ってもらう相手の人柄をよく見ながら交渉してゆかなければならないわけで、若い私には大変な苦労でしたが、交渉相手の人との信頼関係を得るまでには、2年くらいかかったと思います。

 そうこうしているうちに、国の経済状況もよくなって、あるとき熊谷組から足場丸太を一日当たり1500本以上ほしいという注文がありましたので、要望に答えることにしました。長さは20尺~28尺で単価は1尺30円、1本当りで800円程の注文でしたが、これは契約できると思い交渉の上、単価は尺当り32円となり、2年間で約50000本を売ることになりました。この他に電柱材、桧の建築用材など、多くの注文があって、本当に毎日忙しい日々で、朝早くから夜遅くまで一生懸命働くこととなりました。その頃の山林作業員の日当は700円~800円でちょうど足場丸太1本分でした。このきわめて忙しい時期は6~7年続いたと思います。今思えば林業にとって最大の好景気だったと思います。

 昭和38年~39年頃になりますと、材木はよく売れましたが、今度はお金のまわりが悪くなって、土場に入材しても支払いは90~120日の手形決済となって、一方で作業員の支払いの方は現金支払いということで、資金繰りが悪化してやむを得ず、銀行から高金利の借り入れを行うこととなり、必然的に赤字が積み上がってゆきました。

 その頃は、いくら努力してもむくわれない状況で、心身共に疲れ、もう木材商売から縁を切るか、休業するかについて叔父と相談したら「お前の好きなようにすればよい」という返事でした。

 私は決心して、木材商売から手を引くことにし、早速倉庫に入っている架線や機械などの林業資材を売る事にして、古物商を呼んで一言勝負で決め、200万円の現金支払いですべて売り払いました。とにかく、もう商売から卒業しようということで、半年かけて残務整理を行った上で、撤退しました。

 その後は、大型の免許証を持っていましたので、土木工事関係のトラックの運転をすることに決めて、今までとは畑違いでしたが、ダンプの運転手を始めました。仕事はほとんど土砂の運搬でしたが、時には積んだ土の上に土木作業員を20人ぐらい乗せて運ぶこともありました。今考えますと、大変危険なことでしたが、とにもかくにも大きな事故もなく済んでしまいました。

 昭和41年に入り、浦木林業から山林管理者の仕事の話があって、6月からお世話になる事になりました。私も林業と縁があるものだとつくづく思いましたが、とにかく天職と思い頑張ろうと決意しました。

 会社に入った頃は、植林最盛期で雑木林を皆伐した跡に杉・桧の植林を進めてゆきました。また、6月頃からは下刈り作業が始まり、多い時は6ヶ所の現場をこなしてゆかなければならず、日々追われるような状況でした。

 作業員は1番多い時に42人もいましたが、それでも年間の山仕事をこなしてゆくのには精一杯でした。私は仕事の内容について、作業員に対し厳しく接していましたが、1日の仕事が終わると、明日の仕事の段取りやら作業員の個人的な事情など、色々な事を話し合うことが日課となっており、それが楽しみでもありました。多くの人々と山仕事をしてゆく中で、本当に多くのことを勉強することができました。

 昭和55年頃から山の景気が次第に悪くなってゆき、山仕事の事業量も漸次減少し、作業員の方々も年々少なくなってゆきました。平成20年から、国の補助事業の関係で利用間伐(ぬき伐り)を進めてゆくことになり、その中で若い作業員3名が入って来る事になり、その人達を伐採搬出事業の後継者として育ててゆくべく、一緒に仕事をしながら指導してゆくことになりました。

 私の長年培った技術がここにきて役に立つこととなり、うれしく思っていますが、何をいっても伐採搬出現場は、大きな事故と背中合わせにありますので、特に安全に気を使いながら、言葉と実践を通して指導に努めています。若者3人には日頃から、仕事は効率よく進めてゆくこと、一人では30秒早く、4人では2分早く仕事をこなすことを心がけよ、そうすれば1日で1人分の費用が浮いてくるからと言っています。

 また、仕事の段取りは1を聞いて10をさとれと昔のことわざにありますが、ここまでは無理としても3か4くらい先を読んでよく考えよと言っています。毎日、叱咤激励しながら仕事を進めていますが、今は一日一日が充実した日々を送っています。この人達が一日も早く一人前になる事が一番の楽しみです。

 もう80才近くになってきましたが、この若い人達と一緒に仕事をする中で、私も元気を頂いているものと思います。いったいいつまで山仕事ができるものかと思いますが、この若者達が私を追い越してゆくときが私の退職する時だと思っている次第です。

 会社にお世話になって45年が経ちましたが、多くの社員の方々にお世話になったこと、またとりわけ社長さんには個人的にも何かと気遣い頂きました事を心から感謝しています。本当に恵まれた人生であります。

7 大震災を乗り越えて 財団法人熊野林業 会長 浦木 清十郎

 平成二十三年三月十一日に起こったこの度の東日本大地震及び巨大津波による未曾有の大災害で物故された方のご冥福をお祈りすると共に、救援を待つ多勢の避難民の方々、そして親族・友人・縁故者を失った方々、家屋敷・職場・漁場を失った方々に、只々御鎮魂と、御加護を祈るのみであります。

 又、この度の原発事故は、天災と共に大きな人災でもあり、人類が長い間犯して来た欲望(金、物、エネルギー)の象徴とも言える人類の大きな罪の産物ではないだろうか。科学や人間の知恵を欲と自己利益と身勝手のために間違った方向に利用して来た大きな罪の産物ともいえる。長い間に亘って人類が犯して来た罪、すなわち自然を壊し、そこから得た人間の欲望を満たす物と金とエネルギー、そして、科学や人間の知恵を欲望と自己利益の実現の為にまげられて発展してきた結果であり、人類の罪が実現したとも言えましょう。そして最後にたどりついた原子力の莫大なエネルギーの利用、これは人類の尽きることのない恐ろしい悪の象徴ではないだろうか。


 本来日本人は、長い歴史の中で贅沢を慎み、自然を尊び花鳥風月を愛し、そこに心の安らぎと幸せを求めて来ました。この素晴らしい日本人の性格が明治以後、西洋の物質文明の風潮に変わり、金と物、そしてエネルギーの消費を求めるようになり、日本人が長い間培ってきた尊い心が次第に忘れられていったのではないだろうか。


 昭和二十年の敗戦の後、日本は世界の奇跡と言われる復興を遂げた。しかし、これは物と金とエネルギーという物質的な発展であり、心の復興と成長ではありません。心はかえってさもしくなっていったのではなかろうか。そして日本人の道徳、思いやりと慈愛の精神、また父母家族を大切にし、兄弟相和し、隣人愛や助け合いの心、そして自然を愛し大切にするという素晴らしい日本人の本来の姿からは次第に遠ざかっていった。更に金と物とエネルギーの消費で経済の価値を計る、このことが間違った人の幸せの尺度へと進行していったのであろう。


 昭和の初めより次第に軍国的な風潮となり、やがて戦争が始まり、軍事力強化のため物の生産が優先され、これが戦争後も引き続き集中的な大量生産を政治家や官僚、大企業が進めてきたものが経済優先主義である。このようなエネルギーの大量消費によって、大気や水質の汚染などにより自然がむしばまれ国土が破壊されていった。この度の大震災、大津波による原子力発電所の事故は、これら一連の結果と言える。


 今度の原子力発電所の災いは、庶民のためのエネルギーではなく政治家や官僚の要望であり、国家の方向が物欲のために高じた象徴ではなかろうか。人類は、身勝手な欲のために必要以上の物とエネルギーを求め費やし、競争し、対立し、紛争を起こし、ついには戦争をする。其のための費用、そして、戦いのための軍事力の拡大は、ウナギ登りに上がり止まることを知らない。


 人類は、数百万年程前に猿の種族から分かれ、人として進化して来た。五十万年位前には、自ら火を熾すことを覚えた。数万年前には人間は自然を壊すほどではなかったが、故郷であり、母である森林に火を点けて森を焼き、欲望のために自然を破壊し始めた。これを文化とも文明とも言うが、自己の都合のために利用して罪を犯すことになった始まりではないだろうか。そして、数千年前にはこの自然破壊が更に大きくなり贅沢を求めて、必要以上に大量の農地を拡大していき、隣国と対立し、隣国を滅ぼしては巨大な城・宮殿・館・集会場を建造し、さらにそれを拡大していった。そして勝った方は負けた方の人達を奴隷として自己の戦力(兵士)や労働の使役に使った。これらの恐ろしい人類の行為は、欲が生みだした悪魔の行為ともいえる。今紛争中のエジプト、リビア、アラブ諸国が古代数千年前よりまさにこの中心となって居た。


 この度の日本の大震災、大津波による大災害は、もとをただせばこのような人間の大きな物欲の結果とも言えるのではないだろうか。日本では明治の後半にも三陸沖で大地震と大津波があった。その時も津波の高さが三十数メートルまで上がったと報じられて居る。しかし、今程大きな被害はなかった。勿論当時の人口は少なかったが、この度は何故これほどまで大きな被害が出てしまったのであろうか。


 それは明治以後、そしてとりわけ昭和の戦争の後、物欲のために物と金とエネルギーの大量消費を求め、人口増大を計る政策がなされ、より儲かる所に人が集まり人口増大と集中を奨励した。政府と官僚と大企業が前述の大量生産と人口増大を目指す集中的な企画生産方式を指導し、政府資金と税金を集中的に注ぎ込んでいった。農業も漁業も工場も規格大量生産を目指す所に政府資金が流れ、一層の政府援助を受け、その結果そこに工場が密集し人々が集まっていった。また港や農地は整備され、漁業も農業も盛んになり人々も集中する様になった。其のため少ない平地に町は密集し、工場が集まり、小さい場所では更に密集し、儲かる所に人々は集まっていった。この度の大きな被災は、この企画生産方式による集中主義の所産ではないだろうか。そして前述の様に、人口が集中化することによって大きな被害となっていったといえる。とりわけ原子力発電は、この経済生産集中主義の最大の象徴と言えるものである。


 この度の大災害は、正に御神佛の警告である。このことを冷静に受け止め、日本人の長い間培われて来た素晴らしい心、すなわち「自然と共に生きる」というこの日本人の本来の姿に戻るべきではないだろうか。緑を大切にし、森を大切にし、日本人が長い歴史の中で崇め奉って来た鎮守の森を大切にすること、そして、そこに鎮まる御神佛に身も心も帰ることが大切であるということを御神佛が警告して居るのではないだろうか。


 今から一四五年前アルフレッド・ノーベルが一八六六年ニトログリセリンと混ぜると大きな爆発が起こり、岩や構造物を爆破させるダイナマイトを発明した。これが売れて莫大な富を築いた。そしてこれが、現在のノーベル賞の基金となっている。このことは素晴らしい発明であったが、自然を破壊し、爆薬として爆弾に入れて人類を殺傷する兵器となった。化学反応によるエネルギーで自然を破壊し、人を殺す大きな力を人間は手にした。


 今から一一三年前、フランス人キュリー夫妻は、ラジウムが放射能と言うエネルギーを出して次第に原子が崩壊して行く状況を研究し、ノーベル賞を貰った。これが原子エネルギーの発見であり、原子爆弾の原理である。その後、さらに原子の分裂によるエネルギーの研究が進み、この巨大なエネルギーを取り出すことを実用化した。これが原子爆弾である。今迄の化学変化のエネルギーとは桁違いの莫大なエネルギーを人間は手に入れた。そして、巨大なこの原子力を兵器として実用化し、最初に用いられたのが広島・長崎に投下された原子爆弾であった。この巨大な原子エネルギーを大量殺人兵器として用いてしまったのである。この度の原子力発電所の事故も、神は人類に大きな警告をして居るのではないだろうか。


 御皇室は、宮中の覧所に於いて恐れ多くも、毎日祖神天照皇大御神、八百万之神々に御祈願をされておられる。これら天皇の祭祀に関しては、国民に知らされていない。宮中でみそぎを行う天皇の尊い姿を、何故国民に知らせないのだろうか。そして、天皇陛下をはじめ御皇室の方々の日常生活は極めて質素にされて居る。と言うより自由になるお金も財産も持たないのである。つまり御皇室には私有財産は全くなく、西欧の王族、特にイスラムの王族とは大きく異なる。宮内庁はこのことを国民から遠ざけ、国民には知らされていないのである。何と言うことであろうか。この天皇の祭祀こそ国民は、全国の氏神様に国を挙げてお祭りすべきでなかろうか。


 天皇皇后両陛下が一般の方と一緒に行う行事として春の植樹祭があり、秋には皇太子殿下は妃殿下と共に育樹祭が行われる。自然を大切にし、森を大切にするこの尊い行事を国民と一緒になされる。御皇室は、自然を愛し自然を尊び、自然と共に生きて居る。この尊い御皇室の姿こそ正に日本人の象徴であり、模範であり、日本の代表であり日本そのものである。天皇の祭祀は、全て国民と共に行い、世界の人々に知らせるべきことなのである。このことができて始めて日本の真の姿が世界に示され、世界にも稀な尊い日本の姿が伝わってゆくのではないだろうか。そして世界の人々の大きな共感を呼び、尊ばれる国として、また尊敬される国として、世界の手本となる国が生まれるのではないだろうか。

 

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