2 田長谷の植物・1 熊野自然保護連絡協議会 副会長 瀧野 秀二
6 林業の現場で森に育てられた物語 浦木林業株式会社現場指導員 井戸 伸一
私は、16才から山仕事について以来、60年あまりの長期に渡って森の中で仕事を続けてきました。これほど長く山の仕事を続けられるとは思ってもみませんでした。
当初は、終戦直後のことで配給制度の中にあって、食べることにも事欠ける大変な時代でした。そんな状況でしたので、山の仕事以外にこれといった仕事がなく、また住宅復興の気運が高まる中で自然と山の仕事に就くようになりました。
とにかく、がむしゃらに仕事をすると共に、早く仕事をおぼえるために懸命に勉強してゆくうちに、徐々に自分の天職へと向かっていました。
62年間森で学んだ事を振り返りますと、初めは木材の伐採現場で父親についてまわっていました。父親の口癖は「人様に教えてもらうのでなくて、先輩たちの技術や技能などをよく見て習え」というものでした。そんな訳でとにかく人には負けないようがむしゃらに努力を積みあげてゆきました。
25才までの10年間は、伐採に始まり次に出材、木よせ、いかだ組み、いかだ乗りなど一通りの仕事を習得してゆきました。26才になったとき今度は叔父の下で働くことになり、木材の商売(販売)の手伝いをしながら、材木の売り方の勉強をするはめになりました。同じ林業の事なので簡単な事かと思っていましたが、いざやってみると、第一に相手方との交渉が多く、これがなかなかの問題でした。木材の売値がいくらで、その費用がどれくらいかかって、残り分が山主に支払われるという一連のことを頭に入れながら、買ってもらう相手の人柄をよく見ながら交渉してゆかなければならないわけで、若い私には大変な苦労でしたが、交渉相手の人との信頼関係を得るまでには、2年くらいかかったと思います。
そうこうしているうちに、国の経済状況もよくなって、あるとき熊谷組から足場丸太を一日当たり1500本以上ほしいという注文がありましたので、要望に答えることにしました。長さは20尺~28尺で単価は1尺30円、1本当りで800円程の注文でしたが、これは契約できると思い交渉の上、単価は尺当り32円となり、2年間で約50000本を売ることになりました。この他に電柱材、桧の建築用材など、多くの注文があって、本当に毎日忙しい日々で、朝早くから夜遅くまで一生懸命働くこととなりました。その頃の山林作業員の日当は700円~800円でちょうど足場丸太1本分でした。このきわめて忙しい時期は6~7年続いたと思います。今思えば林業にとって最大の好景気だったと思います。
昭和38年~39年頃になりますと、材木はよく売れましたが、今度はお金のまわりが悪くなって、土場に入材しても支払いは90~120日の手形決済となって、一方で作業員の支払いの方は現金支払いということで、資金繰りが悪化してやむを得ず、銀行から高金利の借り入れを行うこととなり、必然的に赤字が積み上がってゆきました。
その頃は、いくら努力してもむくわれない状況で、心身共に疲れ、もう木材商売から縁を切るか、休業するかについて叔父と相談したら「お前の好きなようにすればよい」という返事でした。
私は決心して、木材商売から手を引くことにし、早速倉庫に入っている架線や機械などの林業資材を売る事にして、古物商を呼んで一言勝負で決め、200万円の現金支払いですべて売り払いました。とにかく、もう商売から卒業しようということで、半年かけて残務整理を行った上で、撤退しました。
その後は、大型の免許証を持っていましたので、土木工事関係のトラックの運転をすることに決めて、今までとは畑違いでしたが、ダンプの運転手を始めました。仕事はほとんど土砂の運搬でしたが、時には積んだ土の上に土木作業員を20人ぐらい乗せて運ぶこともありました。今考えますと、大変危険なことでしたが、とにもかくにも大きな事故もなく済んでしまいました。
昭和41年に入り、浦木林業から山林管理者の仕事の話があって、6月からお世話になる事になりました。私も林業と縁があるものだとつくづく思いましたが、とにかく天職と思い頑張ろうと決意しました。
会社に入った頃は、植林最盛期で雑木林を皆伐した跡に杉・桧の植林を進めてゆきました。また、6月頃からは下刈り作業が始まり、多い時は6ヶ所の現場をこなしてゆかなければならず、日々追われるような状況でした。
作業員は1番多い時に42人もいましたが、それでも年間の山仕事をこなしてゆくのには精一杯でした。私は仕事の内容について、作業員に対し厳しく接していましたが、1日の仕事が終わると、明日の仕事の段取りやら作業員の個人的な事情など、色々な事を話し合うことが日課となっており、それが楽しみでもありました。多くの人々と山仕事をしてゆく中で、本当に多くのことを勉強することができました。
昭和55年頃から山の景気が次第に悪くなってゆき、山仕事の事業量も漸次減少し、作業員の方々も年々少なくなってゆきました。平成20年から、国の補助事業の関係で利用間伐(ぬき伐り)を進めてゆくことになり、その中で若い作業員3名が入って来る事になり、その人達を伐採搬出事業の後継者として育ててゆくべく、一緒に仕事をしながら指導してゆくことになりました。
私の長年培った技術がここにきて役に立つこととなり、うれしく思っていますが、何をいっても伐採搬出現場は、大きな事故と背中合わせにありますので、特に安全に気を使いながら、言葉と実践を通して指導に努めています。若者3人には日頃から、仕事は効率よく進めてゆくこと、一人では30秒早く、4人では2分早く仕事をこなすことを心がけよ、そうすれば1日で1人分の費用が浮いてくるからと言っています。
また、仕事の段取りは1を聞いて10をさとれと昔のことわざにありますが、ここまでは無理としても3か4くらい先を読んでよく考えよと言っています。毎日、叱咤激励しながら仕事を進めていますが、今は一日一日が充実した日々を送っています。この人達が一日も早く一人前になる事が一番の楽しみです。
もう80才近くになってきましたが、この若い人達と一緒に仕事をする中で、私も元気を頂いているものと思います。いったいいつまで山仕事ができるものかと思いますが、この若者達が私を追い越してゆくときが私の退職する時だと思っている次第です。
会社にお世話になって45年が経ちましたが、多くの社員の方々にお世話になったこと、またとりわけ社長さんには個人的にも何かと気遣い頂きました事を心から感謝しています。本当に恵まれた人生であります。
7 大震災を乗り越えて 財団法人熊野林業 会長 浦木 清十郎
平成二十三年三月十一日に起こったこの度の東日本大地震及び巨大津波による未曾有の大災害で物故された方のご冥福をお祈りすると共に、救援を待つ多勢の避難民の方々、そして親族・友人・縁故者を失った方々、家屋敷・職場・漁場を失った方々に、只々御鎮魂と、御加護を祈るのみであります。
又、この度の原発事故は、天災と共に大きな人災でもあり、人類が長い間犯して来た欲望(金、物、エネルギー)の象徴とも言える人類の大きな罪の産物ではないだろうか。科学や人間の知恵を欲と自己利益と身勝手のために間違った方向に利用して来た大きな罪の産物ともいえる。長い間に亘って人類が犯して来た罪、すなわち自然を壊し、そこから得た人間の欲望を満たす物と金とエネルギー、そして、科学や人間の知恵を欲望と自己利益の実現の為にまげられて発展してきた結果であり、人類の罪が実現したとも言えましょう。そして最後にたどりついた原子力の莫大なエネルギーの利用、これは人類の尽きることのない恐ろしい悪の象徴ではないだろうか。
本来日本人は、長い歴史の中で贅沢を慎み、自然を尊び花鳥風月を愛し、そこに心の安らぎと幸せを求めて来ました。この素晴らしい日本人の性格が明治以後、西洋の物質文明の風潮に変わり、金と物、そしてエネルギーの消費を求めるようになり、日本人が長い間培ってきた尊い心が次第に忘れられていったのではないだろうか。
昭和二十年の敗戦の後、日本は世界の奇跡と言われる復興を遂げた。しかし、これは物と金とエネルギーという物質的な発展であり、心の復興と成長ではありません。心はかえってさもしくなっていったのではなかろうか。そして日本人の道徳、思いやりと慈愛の精神、また父母家族を大切にし、兄弟相和し、隣人愛や助け合いの心、そして自然を愛し大切にするという素晴らしい日本人の本来の姿からは次第に遠ざかっていった。更に金と物とエネルギーの消費で経済の価値を計る、このことが間違った人の幸せの尺度へと進行していったのであろう。
昭和の初めより次第に軍国的な風潮となり、やがて戦争が始まり、軍事力強化のため物の生産が優先され、これが戦争後も引き続き集中的な大量生産を政治家や官僚、大企業が進めてきたものが経済優先主義である。このようなエネルギーの大量消費によって、大気や水質の汚染などにより自然がむしばまれ国土が破壊されていった。この度の大震災、大津波による原子力発電所の事故は、これら一連の結果と言える。
今度の原子力発電所の災いは、庶民のためのエネルギーではなく政治家や官僚の要望であり、国家の方向が物欲のために高じた象徴ではなかろうか。人類は、身勝手な欲のために必要以上の物とエネルギーを求め費やし、競争し、対立し、紛争を起こし、ついには戦争をする。其のための費用、そして、戦いのための軍事力の拡大は、ウナギ登りに上がり止まることを知らない。
人類は、数百万年程前に猿の種族から分かれ、人として進化して来た。五十万年位前には、自ら火を熾すことを覚えた。数万年前には人間は自然を壊すほどではなかったが、故郷であり、母である森林に火を点けて森を焼き、欲望のために自然を破壊し始めた。これを文化とも文明とも言うが、自己の都合のために利用して罪を犯すことになった始まりではないだろうか。そして、数千年前にはこの自然破壊が更に大きくなり贅沢を求めて、必要以上に大量の農地を拡大していき、隣国と対立し、隣国を滅ぼしては巨大な城・宮殿・館・集会場を建造し、さらにそれを拡大していった。そして勝った方は負けた方の人達を奴隷として自己の戦力(兵士)や労働の使役に使った。これらの恐ろしい人類の行為は、欲が生みだした悪魔の行為ともいえる。今紛争中のエジプト、リビア、アラブ諸国が古代数千年前よりまさにこの中心となって居た。
この度の日本の大震災、大津波による大災害は、もとをただせばこのような人間の大きな物欲の結果とも言えるのではないだろうか。日本では明治の後半にも三陸沖で大地震と大津波があった。その時も津波の高さが三十数メートルまで上がったと報じられて居る。しかし、今程大きな被害はなかった。勿論当時の人口は少なかったが、この度は何故これほどまで大きな被害が出てしまったのであろうか。
それは明治以後、そしてとりわけ昭和の戦争の後、物欲のために物と金とエネルギーの大量消費を求め、人口増大を計る政策がなされ、より儲かる所に人が集まり人口増大と集中を奨励した。政府と官僚と大企業が前述の大量生産と人口増大を目指す集中的な企画生産方式を指導し、政府資金と税金を集中的に注ぎ込んでいった。農業も漁業も工場も規格大量生産を目指す所に政府資金が流れ、一層の政府援助を受け、その結果そこに工場が密集し人々が集まっていった。また港や農地は整備され、漁業も農業も盛んになり人々も集中する様になった。其のため少ない平地に町は密集し、工場が集まり、小さい場所では更に密集し、儲かる所に人々は集まっていった。この度の大きな被災は、この企画生産方式による集中主義の所産ではないだろうか。そして前述の様に、人口が集中化することによって大きな被害となっていったといえる。とりわけ原子力発電は、この経済生産集中主義の最大の象徴と言えるものである。
この度の大災害は、正に御神佛の警告である。このことを冷静に受け止め、日本人の長い間培われて来た素晴らしい心、すなわち「自然と共に生きる」というこの日本人の本来の姿に戻るべきではないだろうか。緑を大切にし、森を大切にし、日本人が長い歴史の中で崇め奉って来た鎮守の森を大切にすること、そして、そこに鎮まる御神佛に身も心も帰ることが大切であるということを御神佛が警告して居るのではないだろうか。
今から一四五年前アルフレッド・ノーベルが一八六六年ニトログリセリンと混ぜると大きな爆発が起こり、岩や構造物を爆破させるダイナマイトを発明した。これが売れて莫大な富を築いた。そしてこれが、現在のノーベル賞の基金となっている。このことは素晴らしい発明であったが、自然を破壊し、爆薬として爆弾に入れて人類を殺傷する兵器となった。化学反応によるエネルギーで自然を破壊し、人を殺す大きな力を人間は手にした。
今から一一三年前、フランス人キュリー夫妻は、ラジウムが放射能と言うエネルギーを出して次第に原子が崩壊して行く状況を研究し、ノーベル賞を貰った。これが原子エネルギーの発見であり、原子爆弾の原理である。その後、さらに原子の分裂によるエネルギーの研究が進み、この巨大なエネルギーを取り出すことを実用化した。これが原子爆弾である。今迄の化学変化のエネルギーとは桁違いの莫大なエネルギーを人間は手に入れた。そして、巨大なこの原子力を兵器として実用化し、最初に用いられたのが広島・長崎に投下された原子爆弾であった。この巨大な原子エネルギーを大量殺人兵器として用いてしまったのである。この度の原子力発電所の事故も、神は人類に大きな警告をして居るのではないだろうか。
御皇室は、宮中の覧所に於いて恐れ多くも、毎日祖神天照皇大御神、八百万之神々に御祈願をされておられる。これら天皇の祭祀に関しては、国民に知らされていない。宮中でみそぎを行う天皇の尊い姿を、何故国民に知らせないのだろうか。そして、天皇陛下をはじめ御皇室の方々の日常生活は極めて質素にされて居る。と言うより自由になるお金も財産も持たないのである。つまり御皇室には私有財産は全くなく、西欧の王族、特にイスラムの王族とは大きく異なる。宮内庁はこのことを国民から遠ざけ、国民には知らされていないのである。何と言うことであろうか。この天皇の祭祀こそ国民は、全国の氏神様に国を挙げてお祭りすべきでなかろうか。
天皇皇后両陛下が一般の方と一緒に行う行事として春の植樹祭があり、秋には皇太子殿下は妃殿下と共に育樹祭が行われる。自然を大切にし、森を大切にするこの尊い行事を国民と一緒になされる。御皇室は、自然を愛し自然を尊び、自然と共に生きて居る。この尊い御皇室の姿こそ正に日本人の象徴であり、模範であり、日本の代表であり日本そのものである。天皇の祭祀は、全て国民と共に行い、世界の人々に知らせるべきことなのである。このことができて始めて日本の真の姿が世界に示され、世界にも稀な尊い日本の姿が伝わってゆくのではないだろうか。そして世界の人々の大きな共感を呼び、尊ばれる国として、また尊敬される国として、世界の手本となる国が生まれるのではないだろうか。