昨今、環境問題が叫ばれ、世界的にも温暖化の問題や炭酸ガスの発生吸収が問題となっている。
この様な時代に森林こそ、その役割を担う大きな存在として、日本は元より世界的に認識が深まって来ている事は、私共、林業に関係する者にとって極めて重要な立場となって来たと云える。
私は、或る懇談会の要請で、荒らされた山や人工林を自然林に近づけて、環境を守るにはどうすれば良いかを問われ、次の様に申し上げた。
長い時間を許されるならば、気候温暖で降雨量が多く多湿で未だ土砂も流出されていない日本の山々は、自然のままでも再生が可能であるが、はげ山は元より人工林は特に、杉檜等の一斉単純林では間伐を放置して林分がうっぺいし、林床に光が届かなくなり、草も生えない人工林が増えて、土砂の流出が多くなる。これを防ぐ為にこれらの人工林を適当に間伐を行ない、その疎開された地面に、自然林への回帰の為に広葉樹等複数の樹種が植林される事が望ましく、適正な間伐等についての政府の奨励と補助金等の助成がなされている。
特に皆伐跡地のはげ山を放置すれば更に土砂の流出が大きく、早く自然林樹種を植樹するか、草や權木の種の散布や植樹によって地肌を緑に覆うことが大切です。
自然樹種が芽生えると、そこに有用樹種を植樹する等の工夫も必要であるが、有用であっても数十年後に有用であるかは予測できない。何が有用であるかをあまり考えるべきではない。
更に、自然林で林業経営を行う場合、林業として収入をあげることや収益事業としての経営をどうして行うかも書いた。
これは、「熊野林業」で多種多様な樹種の自然林の経営については、何度も述べてきた所である。
林業の経済的予測は困難で、色々なシュミレーションを行ない、将来予測の一般経済予測や学者や技術者の計算が行われているが、私はこの様な人為的予測計算は学問や理論としては面白いが、必ずしも信用しない。
林業の場合は特にそうである。
世の移り変わりや、時代の変化、経済の返遷等長期的には、人智では予測できない要素が多すぎて、「この前提であれば」と云う限定された要素の元に予測計算をなされたものは、その前提が崩れると全ては変わってくるのである。
学問や理論にはこの様な危険性や、たわいない間違いがついてまわるのである。
それではどうすれば良いか。
自然こそ全ての手本であり、自然を手本として自然に従うことである。
山であれば現在云われて居る有用樹に重きを置くのではなく、或いは、今と思われているものに限定することでなく、自然の成育、自然の流れに従って、その中で人智をしぼり、人類に役立つ方法や産物を見つけて行く事である。
或いは、産物や森林を如何に役立てるか人智をしぼるべきである。
そして、その自然を壊し、傷つけないで、その自然の中から私共はその資源や産物を利用させて戴く方法を学ぶのである。
それは、一般の材木業や林業家には物足りないかも知れないが、自然を傷めないで、その資源や産物と、そこから私共が有用とされるものを見つけ、有用となる様に工夫し、知慧を絞るのである。
人々が自分の目的を決めて、自然を自分に近づけることではなく、自然に従い、自然を大切にし、その中で私共が如何に人類に役立つ様に利用するべきかに知慧と努力を傾ける事であり、学問や技術も又そうであるべきであります。
今の人類の文明は、人間の欲と好みが先に立って文明が進展している。
自然を壊してしまえば、元も子もなくなるのである。
この発想や今日迄の行き方を改めなくてはならない。
自然を壊してしまって人類の生存が可能であろうか。
自然こそ人間の親であることを忘れてはならない。