「熊野林業」第1号

記事の掲載について

公益財団法人熊野林業が発行する機関誌『熊野林業』について

第1号の記事(青字)をこちらに掲載しています

※記事内容や執筆者肩書につきましては発行時のものとなりますのでご了承ください



『熊野林業』を無料で配布しています

ご希望の方はお問い合わせフォームよりご連絡ください



番号 題名 執筆者
1 木の国熊野の森林から 東大名誉教授 嶺 一三
2 新しい林業経営計算 東大名誉教授 平田 種男
3 今後の林業の在り方と熊野林業研究所設立のねらい 理事 早稲田 収
4 思い出(感謝を込めて) 和歌山県森林審議会 会長理事 多屋 平夫
5 機関紙「熊野林業」の発行によせて 理事 松本 芳和
6 皇族方を熊野三山にお迎えしよう! 大正殖林社長 評議員 矢倉 甚兵衛
7 浦木社長との出会い 林業経営者 尾中 鋼治
8 熊野の林業と森林 浦木 清十郎
9 「なすび伐り林業研修会」報告 財団事務局
10 非皆伐施業参考林分 財団事務局
11 作業道作設の参考資料 財団事務局

1 木の国熊野の森林から 東大名誉教授 嶺 一三

 この度、熊野の林業家、浦木清十郎氏が林業発展を目的として財団法人を設立され、機関誌を刊行するので、寄稿してほしいとの要請があった。

 誌名の第一案は『森林と林業』で、目下林政審議会委員として、日本の林政の基本を審議する重要な職責を持っておられる浦木氏の抱負を示す意図から出た考えだろうが、古い歴史を持つ中央団体の機関誌には適切であると思うが、地方の聲を広く訴える新しい雑誌の名前としては、やや新味に欠ける感じがする。

 『熊野の森林と林業』という案もあると知って、私はこの方が適切なように思う。なお私の考えとしては、森林は木材その他産物を生産する事業の他に、自然環境の保全、森林浴など健康増進や風致景観などの面が最近は強調されるので、特に林業を主題にする事は如何かと考えたが、森林の活用は林業が主体であるとの浦木氏の真面目な気持ちを示す題目として『熊野林業』はふさわしいと申し上げたところ、『熊野林業』を雑誌の名前にするというご返事があった。正に生真面目な性格の浦木氏の命名と更めて私は賛成する。

 浦木氏は、古くから熊野地方で林業を営まれていた旧家の長男に生まれ、北海道大学農学部林学科を昭和二九年に卒業されて、東京大学農学部林学科の当時私が担当していた林学第一講座(森林経理学)の研究室で三年間勉強した後、米国の名門エール(Yale)大学林学部の大学院に入学された。

 現在のように、外国留学が容易というか奨励されている時代では、想像もつかない程外国留学は至難であった時に、米国著名のエール大学のテストに合格されたのは、浦木氏の専門の林学と語学が優秀であった証明である。

 更に経済の点でも、日本は極度の外貨不足で、外国に送金するのは余程の場合でないと許可されないし、為替レートは一ドル三六〇円であったが、闇ドルは四○○円といわれた時代で、送金には苦労されたに相違ない。

 浦木氏は学生時代に励んだ柔道を教えて学費の補助にしたと聞いたことがある。

 私が在籍した東京大学でも、戦時中から戦後に続く財政難で、教授や研究者の海外留学や視察は中絶し、漸く認められるようになっても全国立大学で唯一人という割当で、それに選ばれるのは、正に宝くじに当たると同じ位の確率と言われていた。

 私も農学部から一名という申込者に選ばれたことがあったが、東大には多くの学科、研究所があるので、当選は出来なかった。

 日本政府とは別に米国のロックフェラー財団が、日本の大学の研究者を米国に招いて勉強をさせる制度を聞いたことは有難たかった。

 その場合、将来活動期間の長い若い助教授級は一年間の留学で、人数も比較的多かったが、教授級の場合は期間は三ヵ月であって、余程のことでなければ認めてくれなかった。

 農学部では海外にも名の知れた水産学科の末広教授が留学許可になったが、林学科ではある教授が何回も応募されたが許可にならないで、私が学科主任の奨めで交替をしたところ、幸運にも許可になって、米国 (アラスカを含む)の全土と自費でカナダの追加が許されて、両国の主要大学、研究所、林業地を見学、視察することができた。

 この合格にも間接的に浦木氏の援助があった。それは浦木氏の留学後のことであったが、米国ニューハンプシャー大学のハッシュ教授が、フルブライト財団の奨学金で渡日の予定のところ、手違いで奨学金が貰えなくなって困惑しているという話を聞いて、浦木氏がハッシュ氏の勉強や視察の援助をして下さったことがある。

 偶然にも来日してテストに当たった試験官がハッシュ教授の先輩であったことと、エール大学の有名な名誉教授であるホーレイ博士が来日された時に、私が案内したことから、ハッシュ教授とホーレイ先生が、財団に私を推薦して下さったことが、役に立ったかも知れないと考えるからである。

 ロックフェラー財団は、一等の航空券を送って妻も連れて来いという招待状であったが、妻は子供の教育などの関係で辞退した。

 飛行機は日本航空(JAL)であったが、まだプロペラ機で、ウェーキ島で給油をして漸くハワイに着くという今の人が想像もできない時代であった。

 同行者は、旧岩国藩主の直系吉川氏と浦木氏の後見人であった島居氏の二人で、ハワイ滞在中にジェット機が初めて飛んで来た。

 ロスアンゼルスに着いて、FAO(国際農業機構)の世界会議の前視察団の中に入って、わが国とも関係の深いカルフォルニヤ、オレゴン、ワシントンの三州の森林を世界各国から集まった多くの学者、技術者と共に視察したことは大変有益であった。

 シャトルに着くと、浦木氏はエール大学からはるばるとやって来て、会議に出席する間には鳥居氏と吉川氏を国立公園に案内された。

 私は会議中は日本代表としての論文の発表、事務局主催の見学旅行参加の他に、日本から会議の招待状によって渡米された立石氏を団長とする視察団の世話などに忙殺されて、浦木氏案内の国立公園には行くことができなかった。

 浦木氏と別れて、立石氏等の一行と共にした五大湖地方の視察を終えてから、私は独りで米国の中央部や西部の林学林業に関係のある主要大学、研究所、林業地を精力的に見学した。同国の学者が羨ましがるような充実した旅行であった。

 途中でエール大学にも寄った。浦木氏は学業を終えて既に帰国されていたが、この大学で、著名の学者に会ったり、大林業会社の首脳経営者や技術者が、林業普及専門の教授司会の下に一週間か十日間、終日熱心に報告や討論をしている中に入って勉強したことは、その頃日本の大学では余り見られないセミナー形式を見聞できて大変有益で、浦木氏がこのような優れた教授や研究仲間と共に勉強したことは、将来の活動に大いに役立ったことと思う。

 ニューハンプシャー大学では、ハッシュ教授の尽力で総長の休養室(折よく総長は南米へ長期出張中であった)に泊まらせて頂いた。執務室に寝室と浴室付であった。食事は大学食堂があり、図書室は夜十時まで開いて、熱心な学生は夜も勉強をしていた。

 大学では林学科の先生方や学生に日本の林業に関する講演をしたが、その他ハッシュ教授の尽力で国有林(州有林)の日本でいえば担当区、民有林の普及指導員の現場の仕事場に何日か同行して、その勤務ぶりを視察することを実行した。

 前者の場合、舗装してない林道で車が泥濘におちこんで、スコップを取り出して砂利や土を入れて、漸く車を動かしたので、アメリカでもこんな苦労をしているとは思わなかったと言ったところ、国際会議の折や営林署長が案内するのは道の良い所ばかりで、現場の苦労はわからないと憤慨していた。日本でも同じようなことがあるようだ。

 民有林の場合に、日本では森林所有者の立会を求めるのが通例であるが、この州では普及指導員がただ単独で、所有者が依頼した林で間伐木を選び、輪尺で直径を測り形質を調査記入、価格まで出して所有者へ通知するという。一人でやるので間伐木の記しは、ペンキをスプレーで吹きつけていた。

 今ではもっと良い方法が案出されていると思うが、ニューハンプシャー州は米国内でも民有林の指導普及が進んでいると伝えられているのは当然であると感心した。

 私は三ヵ月という短時日であったのに、このような実情を知ることができたのは幸であった。宿もホテルに泊まらないで林業家のお宅に泊めて頂いて、家庭的なサービスを受けることができた。

 この州は、ニュー・イングランドと呼ばれるイギリスから最初の移民が入った歴史的な地域の中心で、その秋色は絶佳であった。

 日本からの林業視察団の中で、アメリカの紅葉は日本程美しくないと感想を述べていた人があったが、この州やカナダの美しい紅葉を見せたら、短期間に限られた地域の視察でその国の全般を批評するのは誤りであることがわかると思う。

 旅の終わりは、アラスカにしたが、その途中でカナダの南部と、西海岸のブリティッシュ・コロンビヤ州を見たいが、その旅費は自分で出しますからと申し出て、ロックフェラー財団の許可を得た。もっとも財団からは最高の旅費、日当を頂いておるのに、上記のような林業家の家に 泊まったりしたので、お金は余っていて真の自弁とはいえない。

 お金が余ったので、ヨーロッパへ回りたいと希望したが、財団事務局からヨーロッパを希望するならば、アメリカをやめて一方だけを重点的に視察せよと言われたし、大学の講義を長く休むのも良くないと考えて帰国したのである。

 浦木氏から、来年ヨーロッパへ行きたいならば、旅費の援助をしてあげると又も有り難い言葉を頂いた。

 翌昭和三十六年にはウィーンでIUFRO (国際林業研究機構) の世界会議が開催されることになっていたので、会議に出席すると共にヨーロッパの主要林業地の視察をしたいことを希望した。

 ドイツのゲッチンゲン大学教授で林業試験場長をショーバー博士(カラマツの研究の権威者で日本カラマツに関する著書もある)の推薦で、ドイツ学士院外国研究協力機構からドイツ国内の視察費用を援助する旨の招待状を頂いたが、その他の諸国の視察の経費は、浦木氏ともう一つ吉川氏夫妻、山縣氏夫妻その他各地の林業家八名の方々が、私に同行して欧州主要林業地を視察したいと希望されたので、大日本山林会の三浦会長が、同行の旅行団として私に世話を依頼する形式で、浦木氏のこの旅行団が同会に私の旅費を寄附し、それを私が頂く形式が取られた。ミュンエン大学留学中の盛岡の林業家の息子である三田義三氏が通訳役を兼ねて加わり、十名で十ヵ国の視察を行った。
北欧のデンマークで旅行団の帰国を見送った後、私と三田氏はオランダを訪れ、ドイツで前に見ることができなかった所を視察して、オーストリアの首都ウィーンで開催されたIUFROの会議に出席した。そのことの詳細は別の機会に譲ることにしたい。

 浦木氏は昭和三十六年に欧州林業を視察して帰国され、故郷において家業の林業に日本、米国や諸外国で学ばれた知識と見聞を活用して、新しい林業経営に取り組まれた。

 森林開発公団が、林野庁の企画として発足し、最初の事業としてスーパー林道と呼ばれる大型林道を重要な林業地の開発を目的に建設する候補地として、先ず候補に選ばれたのが浦木林業の所有地がある熊野川の支流赤木川と四国の剣山地区の二箇所であった。

 公団に林道を開設してもらうのは、林業家にとって有り難いが、受益者として相当額の負担金を出さねばならないから、関係林業家全部の賛成を得ることが容易でない事情がある。

 熊野川支流は浦木林業が全部(若しかしたら大部分かも知れない)しているとしても、負担金は相当高額であるから、浦木氏に承諾をお願いして欲しいと、私は公団の幹部から依頼された。

 公団発足の初年で、引受地域がないと面目が立たないので、公団は必死の願いであった。浦木氏は私の願いを快く聞き入れられて、公団は大喜びであった。

 林業の他に力を入れられたのはホテルの建設と経営であった。

 浦木氏が東大の研究室在籍中に、私は紀州勝浦で洞窟の中の温泉に入って日の出が見える珍しい宿に泊まったと話したところ、浦木氏はそれは私の家の持ち物で、今は他人に貸してあると語られたことがあった。

 米国には、ホテル学という科がある大学があって、私が訪れたある大学では、日本の帝国ホテルの犬丸氏が学んだと話されたことがあって、浦木氏もホテル学の講義を聞いて興味を覚えたのか、帰国後、紀州の殿様が忘帰洞と命名された洞窟を持つホテル浦島を経営したいと考えられたのであろう。

 私が泊まった時は確か木造であったと思うが、鉄筋コンクリートの近代的なホテルに改築された。

 最初は質素で清潔な大衆的なホテルを目指して、客室は簡素で床の間に飾る生け花も手がかからない那智黒石を置くなど、経費の節約を図るが、サービスには忘帰洞の温泉の整備やホテルの敷地の海岸より一段高い平地(旧藩時代には戦争に備える狼煙台が置かれていたと伝えられる)からは、紀伊松島と呼ばれる島々や、遠く那智の瀧が眺められる風景絶佳な台地(浦木家所有地)に登るケーブルを設置するなど、色々と趣向を凝らした。

 川湯温泉や東京晴海に宿泊料が手頃なホテルを建設し、更に伊勢市老舗大安旅館と二見ヶ浦のホテルの買収などに手を広げられた。

 また海中公園に興味を持って、造園の権威者田村剛博士の知遇を得て、豪州視察に同行して、帰国後海中に通路を持つ新式のホテルを紀州串本に建築した。

 この中には、大安旅館のように見込み違いで、宿屋をやめて建物を移した例もあるが、晴海の東京浦島、川湯温泉、串本のホテルなど、繁盛しているようである。

 勝浦のホテル浦島は経営方針を一変して、従来の建物は従業員宿舎に転用して、新たに豪華な新式ホテルを建設された。狼煙台上には超一流の客室を設け、ケーブルの代わりにエレベーターで登れる設備をつけて、客にサービスをする工夫もされている。

 狼煙台は国立公園の特別地区に入っており、建築などに厳重な制限があるのに、このような立派なホテルの建築が許されたのは、浦木氏の熱意と真摯な人格が、環境庁を動かしたものと思っている。

 私がドイツ・ボン大学へスマー教授を案内して勝浦浦島に泊まった折に、香港やハワイにもホテルを持ちたいと語られたことがあるが、私としては海外迄もホテル業を拡大するよりは、現在のホテルを充実させることに力を注ぐと同時に、林業同友会の副会長、林政審議会委員など林業・林政のリーダーとして新しく発足する財団の発展に努めて頂きたいと祈る次第である。

 財団の発足に当たり機関誌第一号に載せて頂く記事としては、もっと格調の高い文章を書くのが当然と考えるが、浦木氏と私の関係を述べると、どうしてもこのような文章となってしまった。

 そこで最後に、浦木氏が東大在学中に調査研究をされた資料を私が整理して、浦木氏の名前で日本林業技術協会刊行の林業解説シリーズ一二七号として、発刊された「熊野の林業」の“あとがき"に私が書いた文章を揚げて、熊野林業の歴史を偲び、将来の発展を祈りたい。

 あとがき     嶺一三
 
 日本林業は、いまや一大転換期に入っている。大戦の破局から漸くたちなおり、激しく動きつつある日本経済の母体の中で、林業は生まれ変わるべく再生の胎動を続けている。

 新しい林業を生もうとする第一の要因は、生産材の需要構造の変化である。従来の建築用材、それも形と問題とした材の生産を一義的とした需要は、最近になってパルプ材に重点が移り、構造材も改良木材の進歩から形と質の人工的改良が自由となってきて、極端な言い方をすれば、樹種、形質は問題でなく、林業は繊維を出来るだけ多量に生産すればよい方向に向っているとさえいえる。さらに伐木、運材作業の機械化が進み、運材費は著しく低下してきている。一方で造林技術も進んできているし、林業を近代的産業の形に企業的経営へ充実させようという動きも活発である。

 熊野林業は著者が指摘するように発祥の歴史は古いが、吉野の樽丸、高級建築材、尾鷲の高級小丸太や足場材というような特色のある材の生産をしておらず、造林法や施業法の点も格別にほかの地方に誇るべきものを持っている訳ではない。

 ただ熊野川の本支流に、いまだに流すイカダが他の地方に見られない特色であるが、それもだんだんとトラック運材にかわりつつある。しかし、熊野林業の将来の発展への期待は大きいと思う。

 第一に土壌と気候がよいことである。第二に紀勢線の貫通と森林開発公団による幹線林道の建設が進み、熊野川の水運とこれ迄の海上輸送を副次的な輸送手段においこもうとする輸送費の低減がある。第三に山元における伐木、造材、集材の機械化や能率化も進んでいる。このほか造林施業技術も、なまじ古い伝統に縛られないだけに、新しい技術を取り入れることがたやすいともいえる。
今後の熊野林業が、恵まれた条件の集積の上に、どのような発展を遂げるかは、我々の楽しい期待の種である。

浦木君は熊野の旧家に生まれたが、北大、東大で近代的な林学を学びさらにアメリカの名門エール大学で勉強を続けている。私は彼が研究生活を終わって帰国後に、熊野の人々と協力して新しい熊野林業の発展に尽くすであろうことを、もう一つの楽しい期待の種としているものである。(昭和三十四年十二月)

このあとがきは、昭和三十年代の経済発展期に書いたので、林業も材価は高く林業従事者にも恵まれた時代であるから、将来の期待も大きかった。

しかし、その後の景気は停滞し、海外からの木材やパルプの輸入が盛んとなって材価は低迷し、従業者の数も減り老齢化が進むなど、林業にとって都合の悪い条件が重なって、今や林業の危機が来たと言われている。

又、林業は繊維を出来るだけ多量に生産すればよいと書いたことも、私の考えが浅かったことを反省している。

それだけに、熊野地方の林業が活力を取戻し、広く日本全体の林業の活性化に貢献する目的で、現在日本林業同友会副会長、林政審議会委員の重責にある浦木氏が財団を設立されたと考える。

切に浦木氏の努力と財団の発展によって、熊野地方と日本全国の林業が発展することを心から祈るものである。

尚、この著書に紹介された熊野地方の林業の技術、特に今はほとんど絶えた筏による木材流送の方法の解説は、今後の色々な方面に役立つ貴重な資料として残るであろうと評価する。

3 今後の林業の在り方と熊野林業研究所設立のねらい 理事 早稲田 収

 林業を林地(裸地)に一斉に植えて、育てて、伐期に皆伐収穫するという繰返しのことと、考えているのが普通であるが、このような認識が大変問題なのである。

 そもそも林業とは、人間と森林との関わりあいのことであり、人間が森林とどのように関係し(森林を取扱い)森林の徳をどのように享受しようとするかが要点である。

 林業を裸地への造林―保育―皆伐収穫(裸地化)という営みやその繰返しと考えることは、土地に樹木を栽培するような感覚であり、林業を農業と同質のものとして見る見方であろう。全く非林業的発想としなければならない。

 農業は裸地を(田、畑)基盤に営まれ、林業は森林を基盤にする意味で全く異なる。森林無くして、その諸々の機能、いわゆる公益機能も木材生産機能も存在しないのは理の当然である。したがって、林業は森林を造ったり壊したりする営みではなく、良い森林、その状態を恒常的に維持する営み (恒続する営み)でなければならない。森林を経営する(=営林)過程から木材を生産し、また、諸々の公益機能を享受しようとする営みでなければならない。林業の獎めは造林とその取り壊しの獎めではなく営林の獎めでなければならない。林業においては、森林を壊すことは最も反林業的な行為である。その最たるものは、現在極く普通に行われている皆伐一斉収穫であり、これは是非廃さなければならない。造林も同様に通常森林の破壊を前提とする意味でのぞましい行為ではない。森林の破壊がなければ造林の必要もなく、造ることより壊さないことの方が肝要ということである。皆伐しても再造林すれば良い、という考え方も改める必要がある。森林破壊の弊害は大きく、再造林によって償えるものではない。更にその後相当長期にわたる未成熟林であるためのマイナスも大きい。(例えば九州における幼令林の台風大災害のように)

 林業は植栽から始まると考えるよりは伐採から始まると考える方が妥当である。造林を無条件に良いこととする考え方も問題である。造林は何かの理由で自然であれ人為であれすでに森林が失われた場所においてのみ有意義であり、森林がすでに在る場所(天然林であれ人工林であれ)では全く無要の行為である。しかし従来この無要行為に多大の労力と資金を投じたために国有林はじめ多くの林業経営を破綻せしめた。皆伐を伴わない非皆伐施業においては、造林は無要であり、必要なのは、森林の更新回転(若返し)である。老を除き幼を補うことであり、適切に単木選伐することである。これが営林の具体的作業であり、従って、営林に伴って、必然的に木材が産出する。選木は現在の利用価値と保残しての将来の価値生産の可能性の大小を勘案して決められる。従来の間伐の選木との相異は、主として優勢木が伐られ劣勢木が残される点である。伐採後の保残量としては充分な生産量が確保出来るだけの同化器官量を残すことと、保残木が充分発展できる余裕空間が得られることを目安として行われる。

 下層への植裁は適宜行うが本数は極く少ない。それで充分足りるからである。下層の成長が早いことは、原則として期待しない。枯死しないことのみに留意する。要するに、上層の扱いが適切か否かに主眼をおき下層の都合はあまり考えない。現在の育成の主対象は上層だからである。

 浦木林業の経営林は浦木社長の英断により、昭和四十五年以降、前述の理由により、原則として一切の皆伐を止め、非皆伐作業に移行した。収穫は全て単木選伐により、皆伐は行われないので必然的に造林は行われない。従って、造林経費は零になり、既住造林地の下刈等の保育経費も漸減しやがては無くなり、支出は大巾に低減した。収穫は抜き伐り収穫のため、伐木造搬費のm2当たり単価は増大するが、伐出材の平均単価も上昇するのでさほど不利にはならない。この様な非皆伐施業移行に伴う諸問題、個別の技術問題等に関する解明された成果の紹介や施業林、試験林などの非皆伐施業参考林の展示により、非皆伐施業の近隣への普及ひいては日本の林業への寄与を目指す。これが当研究所の目標であり、今後は自らの研究成果をも併せて、日本林業の改革、改善に資することを願うものである。又、林業では路網の整備が必須であるが、特に、非皆伐施業では、少量しばしばの伐出が必要になるため、道の整備が特に重要である。熊野は地形急峻で道の作設が難しく、又、林道は低コストが要件であるが、すでにこのような作業道作設の実績をもっているので、今後、更に検討を進め、実績を積重ねて普及に努めたい。これも目標の重点の一つである。

 このように当面確立と普及をはかろうとしている施業技術は、決して「目新しい新技術ではなく、言うならば近代的、合理的「熊野のなすび伐り」の復活なのである。

 「熊野のなすび伐り」は熊野川の支流北山川流域で、古くに、広く行われた限りなく自然に依存する施業法であり、その後消滅に瀕したが、現在も、熊野市の一部に遺存されている。天然林から成熟木のみ(例えば目通り周囲五尺)を選伐し木材を連産する。

 このような施業は熊野地方のみならず林業の初期段階で、我が国の各地で行われた最古の施業法と思われる。(地域によっては天然林の回し伐りとも言う)。これら先人の知恵に学び初心に戻ろうとするものである。また、現在作設を進めている作業道もいわば近代的「木馬道」の復活である。この地域にも「木馬道」はかつて広く存在した。

(元森林総合研究所東北支所長)

8.熊野の森林と林業 熊野林業研究所会長 浦木清十郎

 日本は国土面積の約70%が山岳と森林であり、そのうち30%が国有林であり、その他が民有林等となって居る。世界でもたぐい稀な森林国であり、又健全で優れた林業が営まれて居る国である。

 その森林の中で半分以上が木材生産林としての林業が営まれて居り、 日本の木材需要のうち3分の1がまかなわれて居る。

 昭和20年、終戦の時は全ての物資が不足し、木材は日本に残された最も有用な資源であり、建築材、家具材、紙パルプや燃料材の為のかけがえのない大きな資源であった。燃料は現在、石油その他にかわり、建築や家具等も代替品が多く出来て、木材の需要は他に転化されたが、経済の発展により全木材の需要量は増え、特に紙パルプ等の木材資源の消費が多くなってきたことで、現在では約70%が輸入材によってまかなわれて居る。

 その様な状況下で我が国の木材生産や木材価格は、他の物価に比べて相対的に低くなり、林業並びに木材事業は他の産業に比べて、低い水準に取り残されて居るのが現状である。従って林業は、日本の山林の30%を占める国有林(一部の営林局を除いて)でも赤字経営であり、民有林も又苦しい経営が続けられて居る。

 日本の森林は保安林や環境保全林(自然保護林)等、木材生産目的以外の山林が約半分を占めるが、他の半分の生産林業を行って居る森林は、赤字経営が多くを占めるが、成長量や蓄積の上では戦後50年の間に増加して居り、資源としては蓄積が増して居る方向にあると林業白書は報じて居る。

 しかし戦後木材資源の不足時代には、大部分皆伐方式で伐採され、その跡地に杉、桧、松、カラマツ等の用材を主とした樹種が一斉に造林され、令級のそろった、又樹種の限定され山林に置き換えられた結果、多くの天然樹種は減少してきた。すなわち蓄積や成長量が増加して居るものの、未成熟のため低質で価値は低い。森林としての高質、価値の高い材を生産する基盤や保安的(水源涵養や空気浄化)要素や、家具その他多様な用途の樹種や森林は減少して居り、低質な木材生産は増加して居るものの、森林としての価値は減少して居る。価格と価値は必ずしも一致するものではなく、水や空気は価格はゼロに近いが価値は大きい様に、 森林も価格は低くても価値は高い。

 即ち天然林が失われ、人工林、特に単純一斉林が増えて居るが、その為森林としての基盤は低下しつつあり、生産する材は低質になり水源かんよう、空気浄化等の保安的要素が失われると共に、一斉の皆伐は一度に金員収入が得られ、経費(伐木、造伐、運搬費)も安いようであるが、その後の造林再生産には多くの経費がかかり、又次の収穫迄には長年にわたり、生産材は低質である。又育林期間中の経費と金利の累積は非常に大きいのである。

 特に、造林費、集運材費、人件費等が木材価格に比べて遥かに高騰している現状では、植樹、造林再生産の事をトータルにみると、皆伐林業は赤字経営にならざるを得ないのである。

 それでは、林業は今後赤字体質、赤字経営とならざるを得ない産業なのであろうか。

 国有林のごく一部や民有林の中でも赤字でない林業が行われて居るところがあり、林業は必ずしも赤字経営ばかりではない。

 林業は一斉に造林し、遠い将来に収穫する農業的手法で収支を計算すると、前述の様に赤字になるのは必然であり、又遠い将来の経済や社会の変容を予想計算する事は不可能である。

 従って、植林して将来その成木を予測するよりも、森林がありその基盤を残しながら、抜き切り(択伐)する方法で、経費に見合うものを伐採し収穫するのである。この方法ではその伐採の収支が赤字にならないばかりでなく、森林の基盤が失われることなく、継続的に収穫が得られ、造林費は極端に少なくなるのである。

 即ち、森林を森林基盤(森林構成の中で基盤となる部分)と、収穫が許される果実の部分に分ける。この果実は、果樹(みかん、柿、リンゴ) の様に果樹と果実に判然と区別出来ないが、森林が欝閉され、林内照度が少なくなり、適度の疎開が必要とされる時機が伐採を必要とする果実が出来て居ると考えるのである。そして森林全体の中で、どれを収穫すべきであるかを見分け、果実の部分である立木や、その他の林産物を収穫するのである。それは森林全体の一定期間(伐採から伐採迄の期間) の中でその果実にあたる部分を抜き切った後、再び欝閉される迄の間の成長量を計算し、伐採(果実)はその森林(林分)の成長量のトータルの範囲内にとどめるべきである。森林が成熟するのは何時であるかの判定は限定的なものではないが、壮令木や中令木、幼令木等混在する中で、 高令級のものが交わり、欝閉した森林が成熟に近づいたと見なして良い。しかしあまり森林の成熟を考慮しなくとも良く、未成熟の森林でも欝閉や照度の程度によって果実として伐採収穫が行われるのである。

 経済的には、その木材の価格や需要等を考え、今すぐ収穫すべきか、残して成長を待つべきか、又枝打ちや又疎開する事によって将来形質の向上や成長を計る等の考慮をして伐採すべきものを判断する。その場合伐採される木材の価格と経費がトータルで赤字にならない範囲で伐採、収穫を行うものである(赤字になるものは間伐、除伐と考えられるものもある)。

 以上の様に森林(林分)の中で三つの要素が総合的に考慮されて果実となるべきものを判断し、伐採がなされるべきである。伐採又は伐期はこの様な考え方に基づくので、皆伐一斉造林の様に一定年令の伐期令を考える事はない。

 勿論樹木には寿命や樹勢の衰え等があり、欝閉又は過密になった森林で、基盤となるべき森林を害しない様に、又将来有用なものをより成長を促す為、除伐や間伐を行う場合もある。しかし除伐や間伐は少なくなり果実として収穫されるべき経済的有用な収穫物が大部分を占める様になるのが理想である。

 そして高令木又寿命に近い樹木だけが伐採利用されるのではなく、多くの樹種が混在するこの様な森林(天然林型)では、灌木や下層木、草木等も有用なものは林産物として収穫する。例えば下木のクロモヂは爪楊枝になり、しきみ、榊等は神祭佛事に用いられる。三寸以下のツバキやシャラも床柱になり、杉、桧、松、カラマツ等の若い樹も海布丸太、磨き丸太(床柱等)柱材、ケタ材等夫々の大きさに於いて利用伐採され、ツバキの実は油となり、下層草木にも色々有用なものがあり、めようがや、ゼンマイ、ワラビ等も有用なものである。松茸やしめじ等、又ほだ木を置いてキノコ栽培も良く、蜂蜜の採集等、森林は多様な生産物を産出するので、木材のみを森林の主要生産物と限定することはない。夫々の用途に適するものは前記森林生産基盤を侵食しない範囲で、又経済的に効果のあるものは森林の果実として伐採利用されるのである。

 従ってその様な森林(多様な樹種が混在する)では、間伐、主伐は従来の様な考え方とはかなり違って来る。即ち、除伐、間伐は欝閉が甚だしくなり、又競合、競争が過密になり、又は樹勢が衰えて、将来的には価値が下がるか、周囲には邪魔になる様な樹種や将来成長しても必ずしも有用でないもので、経済的にあまり伐採してもプラスにならないものを、間伐又は除伐として伐採が行われるが、経済的に利用されるものは全て有用林産物であって、樹木としての成長途中のかい布丸太や磨き丸太も、そして前記多様な森林生産物も主伐の対象と考えて良いだろう。又伐期令も樹木によってそれぞれの寿命や樹勢の衰えがあるので、寿命が来て居るから伐採すべきであると考えても良いが、樹木の寿命は判断が難しい。即ち、樹勢が衰えて居るものでも、疎開し光を入れる事によって樹勢が回復するものも多く見られるからである。

 森林の生態状況によって、同じ樹種でも寿命の幅は大きく、前述の様に一定年令の伐期令と言う考え方は現実的ではないと考えるのである。例えば杉や桧の場合環境との関連で300年でも500年でも或いは1000年を超えても成長しているものがあり、又成長量の最多の時期も一斉の林の様に揃った林を作れば比較的一定の年令に近づいてくるが、環境条件が異なれば成長量最多の時期や、林分の平均成長量も異なり、又現在の利用が量的な面よりも質的な面に重点が移った時代では、成長量最多の時期に伐採をし、収穫材積の最多を求めるよりも価値の成長に重きを置くべきである。

 特に森林の生態的基盤に基礎を置くと、全樹種の森林の成長量のトータルは計測出来るが、個々の樹木の成長量は欝閉度、被圧木等、環境条件によって異なって来るので、あまり深く立ち入ることはない。

 即ち、杉、桧、松等に於いても皆伐跡地に一斉に植栽されるものと、高令木が生い茂る中で、二段林、三段林或いは天然林型の森林に幼令木が芽生える場合とでは、幼令木の成長期間に著しく差があり、杉桧では20年を経ても高令木の下層は径2~3cmの尚幼令木並みの径しかないものもある。その様な樹は年輪は密で、将来欝閉が疎開されて照度が増し成長が促進される時は成長が良く、且つ芯が密で質の良い木材が出来る。屋久杉等1000年を超えるものは幼令時代が長く芯の年輪が詰まっており価値の高い強固な材をなして居るのである。

 以上の様に伐期令という考え方も、この様な天然林型択伐林(抜き切り)では深く立ち入ることがないのである。

 そして以上の様な森林又は林業では、この幼令木は何十年後にどうなるのかとか、どの様な利用のされ方をするか等を考慮するよりも、森林の基盤をこわすことなく、なるべく天然林型の成熟林として将来に残す事が大事であって、その範囲内で数年内又は10数年内に利用出来る経済的効果を考えるべきである。従って、自然環境にマッチした生態的調査や検討が現状の林木の調査と共に大事な要素となってくる。

 また一時的には皆伐より伐採量は少なくて、経費が多少高くついても、継続的に伐採と収穫が得られ、収穫は皆伐後の裸地に一斉造林し、多年造林費のみを費やす皆伐植林に比べてトータルの面で遥かに安いことは前述の通りであり、経費より価格の高いものを抜き切りする為に、後の造林費を考慮しても全体として赤字にはならない。従って一斉皆伐はその時の収支は択伐より有利であるが、次の皆伐迄の造林費や育林期間中の無収入等、長期間に莫大な費用がかかり、森林基盤を残しながら継続的事業として果実のみの伐採による天然林型択伐林(抜き切り)による収支の方は、長期的に見れば遥かに有利な林業経営と云えるのである。

 現在、幼令又は史令の一斉林を、この様な森林に切替えて行くには、従来一般に行われて居た、被圧木や形質の悪いもの、劣勢木を間伐し、将来の主伐の為に優良木、優勢木を残して行く育林方法とは逆に、寧ろ劣勢木や被圧木を残し、優勢で径級が大きくなり、或いは少しでも収入があれば、それを伐採し、被圧された樹木でも、将来樹勢が回復の見込のあるものや今は未熟でも数年後優良木になる可能性のあるものを残すのである。極めて形質の悪いものは取り除くが、劣勢木でも周囲の優勢木又はあばれ木を切る事によって劣勢を回復させ、将来の利用を可能にする事を試みるのである。伐採の状況によって、疎開が過ぎた場合には補植をする。従ってこの様な森林では、将来は径級、令級共に不揃いになってくるが、その方が寧ろ森林として望ましいのである。

 又上記の様に、天然林型に次第に近づいて行けば、森林は保安的機能 (水源涵養や空気浄化等)や環境維持林として最も有用な森林として残されるのである。

 以上の様な林業又は森林は我が国でも実際行われて居り、小規模であるが、例えば岐阜県今須の択伐林、能登や東北地方のあて林業の択伐林、熊野地方のなすび伐り林業、秋田の杉の天然更新や、又大規模なものでは国有林長野県赤沢の檜、サワラ、ヒバ、ネズ等を主とする択伐林でみられるものである。これらは貴重な木材生産と環境林がマッチした林業経営であり、外国に於いてもドイツの公爵林に見られるトウヒやツガの択伐林、スイスの山岳地の択伐林やアメリカ東北部の松、広葉樹混交の天然林経営や、アメリカ南部地方に見られる南部松を主とする針、広混交の天然更新林業等で実際行われて居るのである。

 熊野林業研究所に於いても天然林型抜き切り林業に近づけながら、又森林基盤を維持しながら、環境維持と林木生産の一致する林業の経営を実施し、この方法や考え方を広く啓蒙、普及を計るのが目的である。現在この施業で実験中の試験林で15年以上も経過したものがあり、その成果は十分に得られて居る。

(浦木林業株式会社社長)

 

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