「熊野林業」第4号

記事の掲載について

公益財団法人熊野林業が発行する機関誌『熊野林業』について

第4号の記事(青字)をこちらに掲載しています

※記事内容や執筆者肩書につきましては発行時のものとなりますのでご了承ください



『熊野林業』を無料で配布しています

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番号 題名 執筆者
1 森林の空間価値 東京大学 教授 箕輪 光博
2 熊野新宮林業あれこれ 佐藤春夫記念館 館長 草加 浅一
3 山林経営 大阪府指導林家 大橋 慶三郎
4 産業としての林業は終わったのか? 清光林業株式会社 社長 岡橋 清元
5 わたしは零細林家 作家 宇江 敏勝
6 老山人の今昔物語り 山人 大原 常春
7 南紀熊野体験博と熊野の山林 理事 浦木 清十郎
8 ようこそ熊野の森へ 財団事務局 泉 諸人
9 「第五回林業研修会」報告 財団事務局
10 非皆伐施業参考林分 財団事務局
11 作業道作設の参考資料 財団事務局

2 熊野新宮林業あれこれ 佐藤春夫記念館 館長 草加 浅一 

 古来「紀の国」は「木の国」とも言われ、中でも熊野は特に気候温暖多雨、日本でも有数の木材産地で、近世徳川頼宣の紀州入りはこの山林の保護開発にあったとされる。明治14年新宮商法会議所に端を発した新宮木材協同組合には、貴重な古文書が数多く伝わっている。こうした資料を基に、嘗て『新宮市史』などに書いた記述により、そこはかとなく熊野林業を回顧してみたい。
 
 熊野新宮は、遥か大峯山系に源を発する十津川と遠く大台が原を源流とする北山川を合して全長158km、 近畿第一の大河熊野川の河口にあり、奈良、三重、和歌山の三県にまたがる森林の木材は殆ど筏に組まれて 此所に下った。

 甍(いらか)連る九千戸 伝統深き文化の地
 筏(いかだ)の港新宮市 山紫に水明(きよ)く
 人朗かに情あり

 ふるさとの文豪佐藤春夫が「新宮市歌」(昭和26年制定)の中でいみじくも唱った「筏の港」は正に当時の新宮を象徴して余りがある。

 さてここでは紙数の関係上主として明治以降にしぼって新宮を中心とする熊野林業の動向を駆け足で覗いてみることにする。

 陸の孤島といわれた新宮は江戸時代から木材や木炭を船積みして江戸深川へ送った。この船を通じての江戸・東京取引は文化の交流にも大いに役立った。熊野という辺陬の地にありながら、新宮が田舎にしては派手、華美といわれた所以は、江戸・東京の気風、文化が船の往来を通じて直接入ったからと見てよかろう。司馬遼太郎氏の言われたように正に「新宮は東京の郊外」であった。
 
 熊野川の筏は慶長年間に始まったといわれる。明治年間までは組み筏は杣角に造材されていたが、それが次第に丸太になり、その木も原始林を伐採した黒木(樅、栂類)が主体だったのが文化文政以後には植林した杉、檜にかわって来る。

 また熊野川は毎年必ず何度か大水に見舞われるので流木も多く、水面貯木場と網場(あば)の施設の必要性が痛感されていた。

 水面貯木場の造成は対岸の三重県鵜殿村に出来るのと前後して、明治22年の熊野川未曾有の大洪水で一度頓挫したものの木材問屋組合の発起で24年に出来、この新宮貯木場と鵜殿のそれを合わせると十万石を貯材出来る貯木場が完成したことは画期的なことであった。

 また網場は明治36年、新宮町の山本清五郎氏が御船村浅里(現紀宝町)に藤蔓などで初めて網場をつくり流木をせき止め、その後は次第にワイヤにかわり鮒田、桧杖、大居などにつくられたが、これをくぐり抜けた流木は三重県側の海岸に打ち上げられなければ、黒潮に乗り果ては八丈島あたりまで漂着した。

 なお熊野川口は太平洋の荒波と川の流す土砂でしばしば塞がり、やむなく滞船を余儀なくされた木材船が池田の新宮港に集結し、帆柱を林立させる風景がよく見られた。石井柏亭の名画「滞船」(大正2年第7回文展入選)はその情景を描き、明治末年、共に来遊した与謝野寛も

 明るくも材木船のならびたる

 熊野の秋の川口の色

 と詠み、新宮川原に並ぶ釘一本使わぬ組立式の小屋を眺めて大正初年来遊した晶子は

 川原には小家置かれぬ鳥来たり

 砂に生みたる卵のやうに

 と唱った。画家、歌人に強烈な印象を与えた川口の風景も今は懐かしい思い出の中にある。

 従来の木挽から機械製材への転換は、これ又鵜殿が先鞭をつけ平島に工場が出来、新宮は日清戦争直後、八幡山の麓、現市民会館横へ遠州から蒸気機関をもって来て製材を始めたのが嚆矢というが、その後貯木場周辺に田垣戸、佐古、尾崎工場等続々と建設され、また蒸気から電力による製材へと変わって行く。

 さて永く続いた江戸、東京取引にも破綻がくる。明治24年の東北本線(青森―東京)の開通は秋田東北官材の東京市場進出の端の安い東北材には勝てず、次第に販路を縮めて大阪を中心とする関西方面に後退を余儀なくされる。

 そのうち明治末年日清戦争後新たに日本領となった台湾が、新取引先として浮上してくる。台湾総督府は国威を示す為もあり、従来使用の広葉杉(こうようざん)を手控え日本の杉桧を建築材に使用する方針を執ったので内地材の台湾移出が盛んとなり、それは明治の末年から大正、昭和の戦前まで続き、新宮は全国に先駆けて第1位を堅持した。台湾取引が盛んになるにつれ新宮人も続々台湾へ進出したが、中でも明治39年初代植松新十郎氏は甥の平戸吉蔵氏を派遣し、台北を中心に基隆、打狗に出張所を設け、淡水に製材工場をつくり、二代目植松氏の没後、平戸氏がその後を承け終戦で新宮に引揚げるまで40年間台湾を舞台に活躍した。熊野速玉大社の大鳥居は伊勢湾台風で倒壊するまでは植松氏寄進の台湾阿里山の桧であり、新宮に早くから麻雀が伝わり、バナナやポンカンが入り、高田小学校の旧校舎裏には終始内地の杉桧と競争した広葉杉が一本、誰が植えたか立っている。尚またこの時期松江武二郎氏や浜垣商店の満州。新宮商行、須川洋行の朝鮮進出等が見られるが、これは日清日露の戦勝が新宮人、熊野人の鬱勃たる海外雄飛の精神を、大きく揺すぶったことによるものであることは想像に難くない。

 大正期に入ると第一次世界大戦後の戦後恐慌から間もなく好況に転じるが、外材特に米材を輸入した為に内地材が圧迫され、更に大正12年の関東大震災では、既に台湾や関西に取引を転換していた新宮も好機至れ りと再び東京進出を図ったものの、多くは代金回収不能に陥り手痛い打撃を受ける。外材も亦杉材の半値く らいの安値なのでインパクトを受け大正15年夏には、当時の新宮木材商同業組合の名で「外材輸入関税の引上げ陳情書」を政府に提出した程である。

 更に昭和に入ると浜口内閣の金解禁、昭和恐慌に突入する。この中で台湾取引を続けていた新宮は、まだ他地方に比べると救われたのではなかろうか。しかし昭和12年の日支事変以来昭和16年の大東亜戦争へと日本は次第に戦時体制へと入り、統制経済の下、製材工場も個人経営は許されず、また軍事資材確保のため山林は強制伐採で濫伐され、山村の若人も戦場に駆り出されて出材もままならず、戦後は伐り倒されたまま傷んだ丸太の筏が川原でも毎日よく見られたものである。

 戦後は戦禍を蒙った地方復旧のため、木材需要は急騰した。新宮は他に比べると被害は少ない方であったが、昭和19年の東南海地震、更に追討ちをかけるように21年の南海道大地震では不幸にして火を発し、中心街が全焼する未曾有の大災害を蒙った。更に25年の朝鮮戦争勃発による特需で物価高騰、中でも木材価格の上昇は大きかった。昭和35年所得倍増計画の池田内閣の河野農相は「木材価格安定緊急対策」として、第一に外材輸入の推進、次いで国有林の増伐、さらに私有林伐採の際の所得税を軽減するという三大方針で臨んだ為、材価はある程度抑制出来たものの、それ以後わが国は外材輸入に一段と拍車を掛ける結果となった。昭和36年を「外材元年」と称して回顧する業者も少なくない。

 現在では日本の製材工場の挽材は8割近くが主として米材、ソ連材、南洋材等で占められるに至り、これが林業疲弊の大きな原因の一つとなっている。

 更に戦後の大きな問題はダム建設である。熊野川にダムを造るという構想は昭和23年に既に始まり、石井頴一郎博士の熊野川視察があり、その「日本の再建は熊野から」という論文で、戦後の旺盛なダム建設の波はこの熊野にまで及んだ。電源開発は戦後の国土復活の至上命令であったが、父祖伝来の土地、山林が水没し、職を失い故郷を捨てざるを得ない人々にとっては正に驚天動地の大変革であり、筏の流送で生計を立てて来た筏師、又は木材業者にとり死活問題であった。従って電発反対運動から補償問題へと折衝に折衝を重ねたが、遂に三県を代表して新宮木材協同組合が最終的に取決め、補償金及び水面貯木場の埋立て等で妥結を見た。その結果十津川の風屋ダム、二津野ダムが昭和35年、37年に夫々完成し、おくれて北山川の池原、七色ダムが出来た。

 ダム建設により数百年の歴史を誇った熊野川の後は昭和39年で遂に幕を閉じ、今は僅かに北山川に残る夏期の観光筏に往事を追懐するのみである。昔は川奥へ行くと将来筏師を志望する子供達が多く、また北山川の筏師はその技術を買われて毎年鴨緑江へ出かせぎに行く人々も少なくなかったが今は鴨緑江節、北山筏節が僅かに山間に残るのみとなった。

 筏からトラックへと木材輸送が切り変わるにつれ、昭和31年、新宮電柱木材協同組合(組合長、杉本義夫氏)が初めて市売部をつくり、34年十津川木協新宮出張所が市売市場を日日(ぬかづか)に開設した。(昭和63年閉鎖)電柱木協の市売は昭和36年に新宮原木市売(株)として分離独立し、その後新宮木協を中核とする(株)新宮原木市場として新たに出発した。(表一参照)市売市場が出来て革新的なことは、素材業者も地元山林家も従来の新宮の強力な問屋制度から次第に解放されて自由に市売市場を利用するようになって来たことであろう。

 ダム工事、筏の廃止、国道168号線、42号線の開通、紀勢線の全通等により、交通は便利になったものの熊野川周辺の木材は値の良い方に向かって四散し、筏時代の新宮の独占権は失われ、今や「 の都」も昔語りになって行った。

 外材が輸入されるにつれ、新宮でも外材を挽く工場が次第にふえ、昭和40年代後半より50年代前半にかけては、内地材のメッカ新宮ですら外材が最も大量に挽かれ、54年には三輪崎に新宮港が開港し、日本海側から貨車で運んでいたソ連材なども直接船で運ばれるようになった。(表二参照)

 しかし新宮の製材工場数は昭和36年に50工場を数えたのが、平成に入ると半減し、現在は遂に20工場に激減し、馬力数も減り従業員数も4分の1に減少した。(表三参照)

 また建築様式の変化により、木材の直接使用は減少し、セメント、鉄骨、集成材、パーティクル・ボード等々が多用され、居住性から言えば最高の木材家屋が減少しつつあり、先の阪神淡路大震災で木造が地震に弱いとされたのがそれに拍車をかけた観がある。しかし筋交い、間柱、火打ちの多用、壁面積の拡大による耐震家屋が色々研究されつつある現状である。

 以上全く走り走りで新宮を中心とする林業、木材の歴史に触れてみたが、その栄光と挫折の歴史はただに新宮のみではなく、何処の木材産地でも大なり小なり味わったことでもあった。今や依然として外材のインパクト、内地材の値下り、山村人口の激減等により、下刈り、枝打ち、間伐等は次第におろそかになり、正に林業は危機に瀕している。これは民有林のみならず、多額の負債をかかえる国有林にしても同様である。

 こうした苦悩をかかえる山村の声として本誌第三号に本宮町長中山喜弘氏の「環境と森林交付税」が発表されている。凡そ森林は、光合成CO2(二酸化炭素)を吸収して酸素を排出し、水資源の涵養、野性動物の保護、魚つき、土砂崩壊流出の防止、森林浴や登山などリクレーション、スポーツの場の提供等の他に本来の機能として木材、林産物を生産する。この中で前の5機能は純然たる公益的機能で、『林業白書』によれば、これと同等の機能をもつと見られる施設の建設等に要する費用で評価する、代替法により金額で計量化したところ、平成3年の時点で年間約39兆円になると林野庁では試算している程である。

 中山氏は平成4年以来、森林のもつこの公益的機能の故、国の税収の中から森林面積に応じて森林交付税 (仮称)の形で森林をもつ自治体に還元されたいと広く国民に訴え、その創設の早期実現を目指すと共に関係 市町村の振興を図る目的で、「森林交付税創設促進連盟」をつくり、今年7月、東京での第5回定期総会を開催された。最初の総会では36団体で出発したこの連盟が、今年は加入市町村がその20倍以上の788団体(平成10年6月1日現在)を数えるに至っているのは注目すべきであろう。(10月現在では807団体という)国会議員選挙の有権者数が少なく、政治力の弱い山村の声はなかなか中央に届きにくい。

 しかし最近の『朝日新聞』の社説(10月26日)では、「自治省は今年度から全国の市町村に配分する地方交付税の算出に、森林や田畑の面積を加味し、国土保全のための経費として550億円を組み入れた。一歩進めて市町村が森林保存に使えるお金を国が配分する「森林交付税」の創設を検討してはどうか。具体的には、森林の保全に努めている市町村に森林面積に応じて配分する。使途を細かく制限しなければ、地域の創意を引き出せるはずだ。」と書く。

 「森林交付税」にも追い風が吹いて来た感じで、中山氏を中心とする方々のご努力を多としたい。尚森林交付税が交付されたら、地方交付税が減額される懸念があるのではと今年の総会でも質問が出たそうだが、この辺のけじめもはっきりしたいものである。

 世は大変な不況の中にあり、往年の「昭和恐慌」を思わせる中で、林業の前途はまことに暗く、「21世紀になれば国産材時代が来る」というスローガンで引張っていた『白書』もこの頃は何時の間にか声をひそめた。こうした中で業者はさまざまの工夫をこらしてこの苦境を打開しようと考えているものの、何にしても植林してから伐るまでのインターバルが長すぎるので、短期決戦的な海部丸太やシボ丸太が以前から試みられている。

 このような中で浦木林業は従来の皆伐をやめて、自然にさからわない施業方式で、複層林に力を入れておられるのには敬意を表する次第である。

 今年の『林業白書』でも複層林が取り上げられ、これは森林の公益的機能を継続的に発揮出来、大小の多様な木材の供給、長伐期施業により大径木生産を可能にする等々の利点が多いとしながらも「通常の森林施業に比べて伐採搬出等に高度な技術と多くの手間を要すること、長伐期施業は投資の回収期間が長くなることなどから、これらの施業の実施は地方公共団体や比較的大きな所有規模の森林所有者にとどまっているのが現状である。」とし、そのためには小規模な森林所有者が実施出来るように、①林業作業道の整備②技術者の養成③広葉樹育成の為の施業体系の確立等が必要であるとしている。それに、機械化、特に急峻な地形に適した機械が要望されている。

 熊野のなすび伐り、岐阜の石原林材(株)、愛媛の久万林業など複層林でも近くに著名な地区があり、本誌に示される熊野林業のデータはまことに貴重で、今後 の育林に多大の示唆を与えるものとして注目したい。

 もともと粗放林業であり、間伐も怠り勝ちだった熊野の林業は、戦後たびたび好期を迎えて植林にも精を出し、その後の手入れも出来るだけのことをしていたが、近年の深刻な不況、外材の氾濫、それに木材そのものが建築材料として疎外感をもたれるに至っては、果たして林業は業として成り立つかと不安に駆られ、山の手入れも怠り勝ちになるのは無理からぬことであろう。歴史は繰り返すとも言う。われわれは過去の歴史に鑑み、広い視野に立ち今一度考え直す時期であろう。風雪に堪え近く21世紀を迎えんとしている熊野三千六百峰に果たして今後どんな風が吹くことであろうか。

 (平成10年11月記) (前新宮市森林組合長)

3 山林経営 大阪府指導林家 大橋 慶三郎

 今日、林業は大変で、「このままだと、どうなるのだろう」と、よく聞かれますが、「こうなる」と予測することは、とてもできない。ニッチもサッチもならんときには、焦れば焦るほど分からないようになるもので、そこで「最初の出発点に還ると何でもなく分かることが多い」ということを聞いているので、林業とは、どんなものか、という林業経営の本質を吉野林業の歴史から探ってみたいと思う。

吉野林業のはじまり

 吉野川流域、とくに上流には古くから豊かな原生林があり、吉野川という便利な流送路を利用して近世初期から商品として積極的に木材が搬出されるようになり、豊臣秀吉の大阪城や伏見城をはじめ寺社仏閣の造営に吉野材が使われ、元和6年(1620)に大阪に初めて木材市場が開設された。原生林の減少にともない、やがて人工造林が開始されるが、本格的植林が始まったのは元禄から享保(1700年頃)で、原生林の伐り跡に伐採地を焼き、雑穀を3~5年間栽培してからスギを植えた。(主食の生産と地拵え費を節約するため)
 焼き畑では間作をするため疎植にならざるを得ず、この疎植地の初期の成長は焼き畑を行わない林地よりも成長がよく、ほとんど下刈の必要がなかった。このような吉野の疎植人工林は自然条件に助けられて、やがて大径木となり、搬出に便利な場所にあるため木材業者は、きそって購入し、大阪、和歌山の商人、地主、木材業者、の目を引きつけた。

外部資本の乗出しと山守制度

 吉野材に引きつけられた彼らは、立木の年期買いや、林地の買い入れに乗り出してくる。
 外部の山林所有者は、これらの山林の保護管理を地元の信頼のおける有力者に依頼した。これが山守制度である。
 山守への信頼度が大きくなってくると、山林所有者は山守に依存しきって、その収益のみに関心を持つようになった。遠隔地の所有者は尚更である。
 山林所有者で現場のことは、ほとんど分からない者も多く、山守は伐木販売額の一定の割合を山守賃として受取る権利があったことや、山守が伐出請負を兼ねるときは間伐材を安く払い下げてもらえる権利があったので、山林の保護管理に努力すると同時に、委託された植林、伐出、管理などの経費の切り詰めを可能な限り行って自己の収入の増大をはかることができた。それが密植、多間伐、良質材の生産という形になって現在に至っている。

密植、多間伐、良質材生産

 吉野では、このころになると、植林の場合、「面積当たり何本」ではなくて、「植付個所数と植付本数」で、とりきめられている(例えば、「10万場」)。そのため、 山守は、とにかく決められた本数だけ植えればよい。
 山守は常識的な本数当たりの面積を計上して、植栽費を所有者に請求する。しかし、山守は実際は、その本数を、より少ない面積に植える。すなわち密植である。
 そうすることにより、地拵費と植付人件費が少なくてすみ、その分だけ山守の収益になる。密植が結果として、完満、通直、無節の良質材を生み出すことになった。
 また、彼らは間伐を繰り返すことにより、定期的な収入を得ることができる。すなわち多間伐による山守の利益が見られるのである。この間伐材を、より高く売るためスギ洗丸太とかタルキという銘木の加工生産を始めた。

山林地主の林地集積と小規模育林業の挫折

 吉野地方の山林地主の林地集積過程は、面積的には明治以降に、とくに激しくなった。重要なことは買手側が高利貸資本の立場にたっていたことである。
 この地方の農業は自然条件の悪さと耕地の極端な零細性で、極めて不振であった。そのため主食の大半は村外からの供給によらねばならなかった。時には飢饉のために多くの餓死者を出すこともあった。
 このように農業によって生活を維持しながら森林育成、林業を営んでいく条件に欠けていた。だから不時の出費に備えての財産備蓄としての植林地も、これを維持していくことが困難であった。
 林業以外、例えば農業などによって生活を維持できなくても、森林育成、林業によって生活を維持することは理論のうえでは、できないことはない。この場合、小規模林業から始める拡大再生産が実現されなければならないが、しかし、これは極めて困難である。
 この原因の一つには、森林育成林業の長期性で、初期には資金や労力の投下だけであって、成木からの収入は、ずっと後になってからしか実現しないからである。
 彼等は苦労した植林地を手放して伐出業を兼ねた山守層のもとに従属しなければならなかった。

山守の育林技術


 造林適地
 平坦地は不適とし、砂礫地や乾燥地も不適としている。
 深山の谷川深く、流れが、なだらかな地で、日中2~3時間ほどの間、日がよく当たり、それ以外は日陰で、雑木があり、土は始終しめやかで、谷の底あたりには水分を好む草の多い、しんしんとしたところがよいといわれている。

植栽方法

 一鍬植えは苗の根を乾かさないためでもあろうが、人件費を浮かせるのに関係あると思う。

植え付け本数


 多くの場合ha当たり18,000本植えである。

 以上のように植えつけまでの過程を見ると、適地適木ということを重視しており、地形、方位、陰陽、地味などにも深い注意が払われている。

下刈(とりわけ特殊なことはない)


ひも打ち修理


 植えてから7~8年目ころ、裾枝払いをする。林内へ入りやすく、また除伐のときの選木がしやすいために行った。

除伐


 植えた木が、火吹き竹ぐらい(目通り直径が6cmくらい)になると、その中で悪い木を選んで間引く心で抜き伐りをした。
 さらに「初めより、あらく植えたるは、いがみできるなり」として密植の必要性を説いている。現在は植えて9年目頃から、植えつけ本数の0~20%を除伐する。

間伐


 吉野の間伐は、年輪密度の均一な完満材の成育を兼ねたものであった。明治22年ごろの例として、1ha当 たりの間伐開始時の立木本数が9,000本で、皆伐時は470本(スギ330本、ヒノキ140本)と、なっている。(伐期は120年)
 15年生を初めとする13回の間伐で9000本のうち、 約95%が中間に収穫されている。
 間伐木の選木は、発育の強すぎるものと劣ったものとを選んで伐り、もっぱら成長が整うようにし、良質材生産を計るとともに、早く、そして大きく元利の回収を目指すものであって、第一回の間伐で、すでに第二回、第三回の林冠を予想し、スギに好ましくない急激な林冠の疎開を防ぐために間伐の回数を多くした。
 なお、参考までに12,000本/ha植えで、間伐を14回行った例で、間伐材の収入(後価計算)と主伐材の収入を比較してみると、約22:1の割合となった (伐木110年)。
 このように間伐は密植と絡む吉野林業の粋であり、間伐の仕方で、その後の間伐材や主伐材に、従って収入(山守の収入にも直接かかわる)に大きな影響を与えるものであり、山守は自分の経験知恵のすべてを出しきり、全力を投入して間伐木の選木などの仕事に励んだ。それによって森林所有者、山守の双方に利益をもたらした。

 山守の配慮が、見事な間伐技術となって表れてくるのである。徳川時代に、その基本を確立した間伐技術は明治に入って更に磨きがかかっていったのである。
 以上が吉野林業のあらましである。ここから「林業とは、どんなものか」が分かってくる。

まとめ


 吉野林業地の森林育成林業史をまとめてみると
 1、「山つくり」は自然条件をよく考えて行うもの。
 2、「山つくり」は長期性の業だから農業その他の収入によって生活を維持 しながら営なむものである。
 3、間伐(択伐) による中間収穫により、早く、大きく元利の回収を行わなければならない。
 以上の、ほぼ三つである。これを戦後から今日まで の森林育成林の過程と対照してみることにする。

戦後の森林育成林業と較べてみると


 1、の「山づくりは自然条件をよく考えて行うもの」 について
 林業は自然の力によるものだから自然の仕組みと掟に基づいた施業でなくてはならない。「適地適木」で樹種によって各地方には海抜高の範囲があり、そのなかでもある程度以上の地位に恵まれたところに限られ、 海抜高の高い山頂、稜線、風衝地、表土の薄い岩石地などでは成立が難しいが、成立する適地をはるかに超え、膨大な人工林を造成してしまったことが今日、森林育成林業の破綻だけでなく、自然環境保全の立場から批判を招く一因になった。
 2、の「森林育成林業は農業その他の収入によって生活を維持しながら行うもの」について(小規模林家育林業の挫折)
 植林するときは、そのときの家の事情から「これぐらいは植林できるだろう...」と植林しても成木による収入は、ずっと後になり、家の事情も年月の経過によって変化し息切れしてくる。不時の出費もあるもので、どうにもならず外部資本から借りるが、当然返済できずに苦労した植林地を手放すことになって挫折した。
 今日は材価の低迷が長く続き、収支の均衡がとれず複合経営でなければ生活は勿論のこと保育管理もでき ない。仕事によっては山から遠く離れたところに居住しなければならないものもある。財産の均等相続制に よる林地細分化の進行、農林金融公庫造林資金償還、後継者問題など戦前と挫折に至る条件は形は違うが本 質は変わらないのでは?。
 3、の「間伐、択伐による中間収穫により、早く大きく元利の回収をしなければならない」について。
 昔から「山三分」といわれている。つまり森林育成林業の利回りは年3%と相場が決まっている。
 農林漁業金融公庫の造林資金は長期貸し付けで、据置き期間も長く、その利率は市中金利よりも低く (3%/年)、しかも固定制で大変有難い制度であるが 森林育成林業の本質からみると、利回り3%の森林育成に3%(森林組合からの転貸では3.5%)の利息を支払っていることになる。ということは、造林資金を借りて森林育成林業をすれば林家は、その一生を森林の造成、育成と、その破壊(皆伐による元本の返済)に苦労しただけで誠に哀れというほかはない(死ねば容赦なく相続税まで徴収される)。
 利回りによる収益を重視した前記高利貸資本も山林地主も金利で挫折した小規模森林育成林家も「金利の恐ろしさ」が身に沁みていたので中間収穫により、早く大きく元利の回収をしなければならなかった。そのため経営を左右する間伐、択伐技術に経験、知恵のすべてを投入したのである。昔も今も変わらない。

間伐、択伐木の選木

 常に生き生きとした健全な森林でなければ上記の目的が達成できない。
 実生苗を植林した森林は、いろいろな遺伝子をもった立木が混在し、成熟期も生命力もそれぞれ異なる。生命力(成長力)が弱った木を除かなければ森林全体の生命力が漸次弱まり森林育成林業本来の目的を達成することはできなくなるだけでなく森林の持つ環境のための機能を十分に発揮させてやることもできなくなる。間伐木の選木は経営、環境を左右する大事な仕事である。
 
 どんなもの、どんなことでも内部の状態(そのものの持つもの。ここでは、その木が持つ生命力)は必ず外部に表れるもので、立木は根株の形と色に表れる(梢は見難い)もので、根株が直で力強く、明るい色の木は生命力が盛んで、その反対の木は太くても間伐、択伐の対象木にしている。立木間隔などは、あまり気にしていない。良質木の旺盛な生命力を持続させて間伐周期を短くし、早く大きく元利を回収することが森林育成林業の原則である。

良質材生産


 林地面積、育成年数が同じなら何を多く作り、利回りを多くするかが当然問題になる。材価だけではなく、そのコストも計算に入れての中間収穫額で、今日、木材価格が暴落し、良質材も例外ではないが、それでも一般材と良質材の価格比は1:6で昔とあまり変わらない。伐出コストは価格と相対的に低下するから1/ 6で、昔の人は、よく考えたものだと、つくづく関心する。
 「建築様式も変わって無節の良質材なんて...」との声も聞かれるが、「これしかない!」と思っている。仮に将来、一般材と価格比が変わらないようになっても人々は、よい品を選ぶだろう。

過去、現在を通じての、まとめ


 歴史は過去に実際にあったことで、形などは少し変わっても、その本質は変わらない。「今日には通用しない」と考えるのは大いに驕りで、私たち人間は懲りもせず同じ誤りをするものだと、つくづく思う。
 時代とか文化などが変わっても、昔から現在も残っているものが何と言っても本物で、約300年にわたる森林育成林業の経営や、山守が自分の経験知恵の、ありったけを絞って作り上げた間伐などの知恵を引き継いで行くのが林業後継者であろう。

(大橋式作業道実践指導者)

5 わたしは、零細林家 作家 宇江 敏勝

 九月下旬の台風七号は、雨はさほどではなかったが、 風が特に強烈だった。

 田辺・西牟婁を中心にして、植林地が大きな被害を蒙った。和歌山県西牟婁郡振興局林務課の調査集計によれば、被害面積128へクタール、金額六億四千八百万円とのことだが、この数字はかなりあまいかも知れない。
 
 台風の後、私は日置川流域のとある谷川を歩いてみた。樹令三十年生前後の杉や檜がそこもかしこも無惨な姿になっている。根っこからひけて横に倒れた木、弓のように大きく曲がった木、枝をつけた部分が折れて散り、丸柱のように突っ立った木、まるで巨大な龍蛇が山あいをのたったかのようだ。

 ところで、あまり傷つかないで残っている林もある。運よく強風の弾頭から免れたものらしい。だが、よく見てみると、よく間伐をして、幹の太った林では被害も少ない。逆に手入れをされずに押し合って細く伸びた木は、いっせいになぎ倒されて紐のようにもつれている。

 その周辺はかつて集落のあった所で、杉や檜は田や畑やカリバ(採草地)の跡に植えたものである。昭和三、四十年代の過疎化が進む中で、自分の土地に木を植えて出て行ったのだ。つまり所有はこまかく分断されている。当時は全国あげて植林ブームの時代であったから、山間部に住む人々も、限られた土地にこぞって植えたのである。また、林地の値段も急騰していたから、田辺など町の人々が投機的な目的で買うケースも少なくなかった。だが、植林ブームが去り、不況下で木材の市場価格は低迷し、最近では林地の売買もほとんどなくなった。いっときの熱気は覚めて手入れをせずに放置された植林が多くなり、結果、台風による被害を大きくしたのではないだろうか。

 台風の後、さっそく私は自分の山林を見てまわった。十本ばかりは折れたり傾いたりしていたが、まず無事なほうで、胸をなでおろした。

 私が育てている木もかつて住んでいた集落のまわりに植えているのである。面積は二カ所を合わせて約五ヘクタールと、甲子園球場よりちょっぴり広い程度だ。 『林業白書』によれば、わが国の林家数は約二五〇万戸 で、その九割は所有面積が五へクタール未満だという。つまり私も平均的な山持ちなのである。

 私が親からもらった土地に檜を植えたのは、昭和三十年代のことである。自分自身は地元の森林組合の作業班員となって造林現場で働いており、その片手間の仕事だった。わずかな面積ではあるが、植えるだけに数年かかったように思う。もちろん夏になると下草刈りも続けた。

 作業班に加わってまもない頃、森林組合のきも入りで、奈良県の吉野林業を見学したことがあった。一へクタール当たり一万本から二万本も植えて、磨丸太をつくるという、いわゆる集約林業に、その後かなり強い影響を受けたのではないだろうか。当時、熊野地方ではせいぜい三千本前後だったのが、五千本ほども植えるようになった。私も自分の山にその程度の数を植えた。

 不十分ながら枝打ちもした。吉野の熱心な林業家と友人になって、人工絞の技術も手ほどきしてもらった。自分の山林はわずかな面積だが、これだと磨丸太で生計が立つのではないだろうか、と考えたのは昭和五十年頃のことである。しかし、そのあたりから林業の雲行きがあやしくなり、私自身は作家業になってしまって、磨丸太の夢は霧散した。

 しかし、机の仕事の合間に、たまのことだが山へ入った。おもに間伐で、枝打ちにまでは手がまわりきらない。しかし、自分の植えた木にふれて一本ずつ手入れをするのは、なんという楽しさだろう。

 じつのところ、雇われての山仕事はきびしいものだった。真夏の炎天下の下草刈りや、雨に濡れながらの枝打ちを、みじめな労働だと思わずにはいられなかった。そのうえ出来高の賃金勘定だから、つねに金に追われている脅迫感がぬぐいされなかった。

 しかし自分の山林だと、気の向くままの仕事である。もちろん今日の収入にはならないし、将来も自分が生きている間に木材として売れるかどうか、これまた見込みが立たない。それでいいんだよ、という気持ちで、いわば木に遊んでもらうのである。大きな山持ちのように人件費の工面をする苦労もないのだ。

 平成四年に家を新築したが、その一年ほど前からやはり机の仕事の合間に、自分が育てた木を近い所で伐採した。樹令三十年に少し足りないが、製材所で挽いてもらって、芯つきの柱や梁が立派にとれた。間伐が決してむだではなかったあかしである。檜は三十年ではまだ柱に使えないので、まず全体の七割ぐらいは、自前の木材で家を建てることができた。

 そして、三年前には、また自分の手でいっせいに間伐をした。森林組合を通じて、一へクタール5万円ほどの補助金ももらった。但し、車道に遠い所から、柱材になる三十年生前後の木もすべて伐り捨てである。

 そして、このたびの台風七号である。机の仕事に少しひまができたら、またチェンソーを担いで、傾いた木を伐採しようと思うのである。

 熊野はわが国屈指の植林地帯である。それにしても間伐をせずに放置された森の何と多いことか、どうしてなのだろう。

 大きな山林家には、長年培ったノウハウと売れる木もあることから、管理も比較的にやられているのではないか、と私は思う。少しばかりの田畑を荒らした跡に植えた木や、植林ブームの時代に投機筋の手に渡った山がよろしくない。彼らは木を植えて育て、木材として収穫するまでの経験や知識に欠けており、しかし林業の低迷の中でやる気を失っている。それにしても、一人一人の持山はわずかでも、全国二五〇万戸を合わせたらどれほどの数字になるか、大変な面積なのだ。

 木を育てるのは、もちろん林家個人の責任である。しかし、作業が進んでいない現状では、やはり国や自治体や森林組合が強く指導し援助をしなければならない。それをよくやっている自治体とやらない所のバラつきも大きいように思う。

 私の植えて育てた木が、将来どのようになるのかはわからない。しかし、ここまでやったのだから、自分が死ぬまでつき合ってやろうと考えるのである。

6 老山人の今昔物語 山人 大原 常春

 『山人(やまぶと)』この言葉は明治から昭和の中頃までよく使われていた言葉で、現在の組長のことです。

 私の父は浦木さん(現浦木林業株式会社)の山人でありました。管理する山の区域は、熊野川町小口上長井地区から両岸を経て大原地区まで、又西地区より赤木川両岸を経て横山方面までの各山の管理につとめて りました。父は明治二十六年、畝畑区内大原に生まれました。人里遠くはなれた所で生活をして居りました故に、学校にも行かず全くの無学でございました。山人であり事業の責任者もして居りました父の従事した仕事の一つ二つを申し上げます。

 昭和五年、古所谷に木馬道を作ってはどうかと浦木本店に申しました。早速、浦木さんの方で受け入れて下さって実行する事になり、当時土木に多少経験が有る人も居りまして、早速工事にかかりました、父は浦木さんからの名代として工事の進行其他の見回りを兼ね、又西区民の一人として作業にも従事しました。工事は途中崖山などの危険な所などで苦労を重ねながらも、昭和八年頃に現在の林道の終点近くまで完成致しました。その間には、色々なトラブルもあり、例えば名代としての父の言葉に反抗して腕力を振る人もいました。こうして古所谷に木馬道が出来てからは、松や黒木(モミ・ツガ等)の伐採をして木馬道を使って出材し、和田川を筏で下したものです。

 もう一つは、本宮町蓑尾谷にある槇峪山の出材でございます。昭和十九年、父兄と共に私も参加し事業に従事致しました。当時この山は七・八十年生の立派な杉檜山でした。大勢の方が入り作業をして居りました。先ず伐採には大山地区の真砂重左工門さんが責任者で、その方の下にそれぞれ腕の立つ切りの達人達がついて伐採をして居りました。出材は赤木の澤今三郎さんが責任者として出材致して居りました。主として架線で材を谷川の近くへ下ろして、平張又は盤台とも言う集積場に集めてから、蓑尾谷を流送(狩川)で静川の筏場まで出して行くのが父の仕事でありました。この谷川は、雨が降って増水すれば材木も流れるけれど、雨が降らなければすぐに谷水が涸れて、とても流送どころではない訳でございました。流送の方法は、要所々に鉄砲堰を作り、谷水を堰止め上でこの蓄積した水を一度に放水して、其の水力により木材を一気に流すのであります。其鉄砲堰は一番奥は若山谷に一つ、其次は槇峪山の平張の百メートル位奥に作り、次は瀬井と言う部落の近くで奥の二つの堰より大きく頑丈な鉄砲堰が設置されました。この堰に奥の二つの水を合流させますと、奥の二つの堰の水の力で流送されてきた材木は、ここから静川まで一気に流送して行くと言う計画のもとに作られたものです。これ等の鉄砲堰は普通の人ではなかなか作ることは出来ませんでした。

 ところで、当時父と一緒に仕事をして居りました前田菊市さんと言う人がいました。元々は日高方面の人でしたが、昔畝畑で藤田林業が大きな事業をしていた頃、代人と言う肩書きで当地に来られて仕事をしていました。前田さんは藤田林業の事業が終わり、当地の女の方と結婚してから近所に住所を構えて、私の父と共に浦木さんの仕事に従事するようになりました。とても利口な人で、大工仕事も本職顔負けと言う位で、その前田さんが鉄砲堰や後で申し上げる止等の名人でありました。堰の用材は、ほとんど木材を使用して水を止めていたのですが、隙間には苔を詰め込んで水を止めるのです。堰に満水してからもオーバーする水をしばらく流して、それが下の堰に貯水する訳で、下の堰が満水の状態になった頃、上の鉄砲堰を切る訳です。 それ等の堰を切るのが若い私達の役目でありました。

 その方法は、奥から二つ目の堰を切るのは別の人がして、二つの堰の水が平常になってから二人で堰を閉め、 再度水を貯水する事にしました。堰の大小により数も多くなったり少なくなったりなるのです。二つの堰をせぎ終わってから瀬井の部落の堰へ走ったものです。瀬井の堰は大変大きく、いつもダムの様に水が貯水して居り、材木も堰一ぱいひしめいて居りました。堰の上の方にシュラが作られて、オーバーする水を使用して材木を下へ流していました。作業員の人は多い日で三十名位出て居りました。日によって、多くの材木を流送することになると、出材の人達も応援に来てくれたものです。大勢の人が要所々に居て、流木を下流へ下流へと延ばして、頃合を見て庄屋(私の父)の合図で、瀬井の鉄砲堰を切るのです。堰一ぱい貯水したのを放水した場合、勢いが強すぎて谷川は流れ果て、材木でも細いものは折れたり乱舞する位でした。そこで二番水戸と言って、堰の上の方に本水戸より小さい水戸のトマイを切り、貯水の水を減らしてから本水戸のトマイを切る訳です。それでもドッと音がして水頭が岩に砕けて流れる様は実に壮快で、一挙に材木を押流して行くのです。

 白子を通り静川の小学校近くに『止』と言って、大雨で谷川が洪水になり材木が流出した場合でも、大塔川に流失しない様に此所に筏を作ったのです。この止こそ前田さんが丹精こめて作り上げた立派な止で、請川方面や遠く本宮方面からも見に来た人もありました。此の止を作るにあたり、静川の山人井戸孫左エ門さんが管理していた大谷山で用材を切り出して、大塔川を流送して作ったのでした。この止で止めた木材を大塔川の筏場へ流し、後にして下ろした訳です。当時の筏師は柏木宗平さんとか言って居りました。

 このようにして山人たる父も、時には事業の責任者として多くの作業員と共に頑張っていたものです。私は今になって、昔の様子を書きました訳はと問われれば、戦前の時代と現在の事業の方式が全く異なって参りました事を、今の人に知ってもらいたいと思ったからです。先に申しました箕尾谷槇崎の出材にしましても、現在では林道が出来ていて流送などする事もなく、伐採も勿論チェンソーで、出材も機械化して、作業員も七~八名の人で出来ていけるのではないでしょうか。当時は事業に従事する人は、四~五十名の人が働いていたと思います。また鉄砲堰を作ると言う事は、これからの時代には絶対ないと思います。

 さて無学であった父は、作業員の手配や其他の事務的な事をどうしたのかと申しますと、何時も私の兄が一緒に行動を共にして、事務的な一切の事などは父に協力して、共に事業に尽くして居りました。昔は責任者の事を庄屋さんと呼び、事務的な人を小庄屋と申して居りました。父と兄は、親子で庄屋・小庄屋でありました。その兄は昭和三十六年頃から植林其他で忙しくなって来た私の組に加わり、私を助けて又現場に於いて何かと作業員に助言して、作業の進行に努力してくれました。現在九十一歳で元気に余生を送って居ります。さて父の事に戻りますが、無学な父は境界見回りをどうしたのかと申しますと、実は赤木の浦木本店では当時次のような状況になって居りました。その本店には五人の番頭さんがいました。須川徳四郎さん、加苅角吉さん、蔭地捨吉さん、久保利清さん、井本利若さんでございました。幸いにも加苅角吉さんは父とは従兄でもあり、義兄弟の間柄でもありましたので、 早くから父の無学を知って居りました。山の見回りをしても、何も書かずに見回りする事は出来ないということで、加苅さんから井(〇に井)山大原と紙に書いて練習するように教えてもらい、時間があれば井(〇に井)山大原と書いて訓練をしていました。そういう訳でどうやら山の立木に書けるようになったと父から話されました。

 戦後復員してから私は父の後を継いで、山人として引き継いだ各山の境界見回りをすることになりました。 私の様な浦木さんの山人は各地区毎に居りました。親から子へ、或いは孫へと引き継いで居る所もあります。 山人になる者は誰でもいいと言う訳にはゆかないと思います。人様の財産を預かっているのですから、正直 な性格と同時に人望がある人でなければいけないと思います。だからこそ、境界盗守管理を任されているの だと思っています。その後浦木本店から浦木林業株式会社に変わりましてからは、事業も近代化し、私も他の地区に数多く行くようになり、山人の努めはもとより、組長(責任者)としての仕事の方が大事な役目になって参りました。戦後、各山人(後に組長)は各自の受け持つ山の育林に力を注ぎ、地拵から植林・下 刈・枝打・除伐・間伐等、技術を必要とする作業に携わるようになり、常に良材を育成してゆく為の高度な技術を身につけて行かなければならない時代に変わって参りました。

 終戦後、日本の復興と共に木材の需要が急速に押しよせて、各地において立派な山が皆伐されてゆく時期がありました。勿論私が管理する山も次々と伐採されてゆきました。伐採された山は、植林せねばなりません。昭和三十年前後から、トラックに杉苗を満載して走る光景をよく見かけたものでした。戦後、私が最初に地拵にかかったのは大那口山でした。昭和三十一年に地拵をするにあたり、地拵の様式を始めて『大棚式』 に作る事にしました。その方法とは、杉を植える棚を上下の巾約十メートル位にして、その間に四筋から五筋植える様に拾えることにしました。地形等によっては一様にはできないところもありましたが、出来る限りこの方法で実行しました。この様にして植林すれば、植え易く後々補植下刈等の手入れの作業が大変能率よくできました。大那口山は昭和三十四年に植林補植等が終り、引き続いて立間谷の地拵・植林にかかり、それも昭和三十六年末に終りました。そして翌昭和三十七年には五味山の植林を秋に行いました。植林は春行うのが常識ですが、秋に実施するのは私達も始めてでございました。しかし、見事成功致しまして、現在のような立派な杉檜山に成長しました。

 昭和三十七年冬からいよいよ古所谷の地拵にかかりました。この頃から作業員の増員を会社にお願いして、 土地の女性の方で働き盛りの人を増員し、多い時には十六~七名の作業員となりました。地拵の出来た所か ら植林を始め、最初の植林は昭和三十八年でした。古所谷全山を私の組で地拵・植林する事は年数もかかる 事なので、一部の区域を宇井組に地拵及び植林をして頂きました。この様にして古所谷の植林に向って、私 共は一丸となって作業に頑張って参りました。当時、私の意に従って汗水流して頑張ってくれた方々に改めて感謝申し上げたいと思います。その古所谷の植林最盛期に、私なりに思いついたままに『植林訓』なるものを作って、作業員に対して植林を行う熱意を持ってもらう様にしました。その植林訓とは、『一・真実の二字で植えようこの一本、二・一鍬を惜しむな石をとりのぞけ、三・根をほすな苗木いたわる心もち、四・必生の信念あしたの大森林。』この様なものが訓になったかどうかは別として、なぜか大原組の植林の成果は大変良好なものでした。会社からの調査によれば、枯損率は五百本に一本の割合ということでした。最近は、植林しても兎や鹿の害が多くありますが、当時は案外ケモノの害が少なかったように思います。この様にして古所谷の植林は昭和四十二年四月に終りました。植林総面積七十三へクタール、杉檜の割合は杉七十五%、檜二十五%位のものと思われます。古所谷が終って宇井組が栃山の地拵・植林にかかり、私達も栃山の植林にかかりました。栃山が終ってから倉谷山の地拵・植林にかかった訳です。古所谷・栃山・倉谷山と宇井組の皆さんに植林の協力をしてもらい、後の下刈等は全部私共の組で行いました。他に和田向・胴中瀬・向平等々戦後植林して育てて参りました山々は、約五百へクタール位と思います。その後一部の山を除いて枝打除伐等をしてきました。各山とも成長期に入り、緑濃くすくすくと伸び行くこれ等の山をみるたびに、子供が成長して行く感じが致します。

 日本の林業を取り巻く諸情勢は、不況と言う言葉を通り越してどん底にあえいでいる様に思われます。戦後の復興景気のあの花々しい時代が懐かしく思い出されます。しかし、これ等戦後植林した若い杉や檜の山も、何時の時代か必ずや重要な役目を果たして、世の中のお役に立ってくれる事があると確信致すものであります。そして、浦木林業株式会社は遠久不滅益々繁栄して行く事を心より願ってひとりごとを終ります。

平成十年十二月一日

(浦木林業株式会社名誉参事)

7 南紀熊野体験博と熊野の山林 財団法人熊野林業 会長 浦木 清十郎

 今年は熊野地方に於きまして、4月3日より9月10日迄南紀熊野体験博が行われます。一般の博覧会が一点集中型であるのと違って、熊野16市町村を舞台に、広範囲に亘る新しい構想の博覧会です。即ち一カ所に建物(箱物)を集中することなく、熊野全体の環境がテーマであり、その歴史と文化と現在の環境を体験し、味わってもらおうとする壮大な構想です。
 
 熊野は美しい海、山、川、渓谷、瀧、森や温泉等全国でも類希なすばらしいものを持って居ります。これだけ揃った優れた環境は全国でもありません。更に日本発生に係る歴史、文化を持つ希有な所です。日本建国が大和の橿原で神武天皇の即位と共に始まりました。2月1日の建国記念日です。神武天皇が大和に入る前に上陸した所が熊野です。古事記にも日本書紀にも記されて居ります。大和の政権が生まれ、今の日本の礎が出来ましたが、大和朝廷での先祖、即ち神代と云われる時代の神々が熊野に祀られて居ります。熊野は日本の先祖の神々の祀られる所です。国の先祖が祀られて居る熊野にお参りするのが熊野詣でです。蟻の熊野詣でと云われた程盛んな時代が長く続きました。その熊野詣での参道が熊野古道です。この度の体験博の主要なテーマです。熊野古道は田辺より本宮、新宮、那智と熊野三山に至る熊野の山々、森林をぬって続いて居ります。

 熊野のすばらしい森林、樹木を十分に味わうことが出来ます。

 熊野三山の一つ熊野本宮大社は木の神である家津美御子大神が主神です。

 家津美御子大神はヤマタのオロチを退治した素盞鳴尊の別名です。

 古代より森林と林業が熊野の特色であったことを伺わせます。熊野の山林は照葉樹林で、高木ではカシ、クス、シイ、タブ、ツバキ、モッコク、モチ、ツバキ、ヤナギ、ヤマモモ、ヤシャブシ等の広葉樹と灌木ではサカキ、シキビ、クロモヂ、シロモヂ、ツツジ類又針葉樹ではモミ、ツガ、カヤ、トガサワラ、槇、ヒノキ、サワラ等です。落葉樹ではサクラ、ケヤキ、トチノ木、ホウ、シデ、カシワ、ナラ類、ハゼ、ウルシ、カツラ、ヤマアジサイ等で山が高くなる程落葉樹が多く見られます。秋から冬にかけては山裾の方は紅葉が少ないのですが、少し高くなると紅葉も増えて来ます。熊野古道はすばらしい熊野の山林地帯です。

 熊野古道を歩くと、熊野の森林、林業の色々な生態が見られます。又杉桧の造林地も色々な年齢層が見られますし、複層林や天然林を見ながら遊歩出来るすばらしい山道です。是非とも熊野の古道を散策し、遊歩する事をお奨め致します。

8 ようこそ熊野の森へ 財団事務局 泉 諸人

 ここ熊野は、山深き国です。4月から5月にかけては若葉のみどりが私達の目を楽しませてくれます。杉や檜の人工林が多くみられますが、その中でも天然林を代表する「カシ」や「シイ」などの照葉樹の若葉が目ぶく4月頃特に、美しい山の姿を見せてくれます。又この頃はみどりの葉だけでなく、山桜・モクレンの「白」や、ヤブツバキの「赤」の花々がみどりの中で美しいコントラストをかもし出しています。とりわけ天然林は、私たちの目と心を楽しませてくれているようです。

 では天然林の中に足を踏み入れてみることにしましょう。まず感じることは、清々しい空気です。囲りの木々がたくさんの空気(酸素)を私に与えてくれているように思います。昨今は森を歩いて森林浴を楽しむ人が増えていると聞きますが、幸いにも私はほとんど毎日森林浴をしています。

 少し上を見上げてみると、大きな大きな木が見えます。モミやツガの木です。年令(樹令)は、おそらく300年以上たっていると思います。幹まわりは、大人3人位でやっとまわせるほどですし、はだ(皮)は、波をうっているようにみえます。300年以上にわたって自然の風雪に耐えてきたあかしのようです。また所々に「スギ」や「ヒノキ」 の天然木も見えます。これらの木々 (モミ・ツガ・スギ・ヒノキ)は、この森の主であるかのように堂々とそびえ立って囲りを圧倒しています。

 今度はそれよりもう少し下に目を向けてみましょう。ここには、たくさんの種類の木がみえます。アラカシ、シラカシ、ウバメガシ、ヤブツバキ、サカキ、シキミ、ヒメシャラなどです。これらを総称して照葉樹といっているようですが、これがここ熊野の天然林の中心をなしている木々です。太陽からの光を葉で受け止めていますが、下からみるとそのやさしいこもれ日が一段と緑を引き立たせているように思います。この森を歩いていると本当に気分がよくなってきます。

 ではもっと下の自分の目線と同じくらいのところを見てみると、ここには 低い木のクロモジやアセビなどが少し遠慮がちに、しかし自分の位置をしっかり確保しながら立っています。 上の大木と中くらいの照葉樹と下の小さな木がそれぞれお互いを認め合いながら住みわけている様は、自然そのもののように思います。少し歩いてみると気が付きますが、足元が軽く感じると思うはずです。そうです、それは枯れ葉などが積もってスポンジ状態になっているからです。だから少々長く歩いても足は疲れません。森の中は足にもやさしい訳です。

 歩きながら下を注意して見てみると、あちこちに動物のフンが見えます。シカ、カモシカ、イノシシ、タヌキたちのフンです。これらをよく観察していると、この森にはどんな動物がたくさんいるかわかります。どうもフンの数からするとシカが一番多いように思います。時々、遠くでシカの鳴く声が聞こえてきます。動物も植物も共に生きていると感じられるはずです。

 どうでしょうか、ここ熊野の森は「自然豊かな森」 といえるのではないでしょうか。

 そしてこの森が私たち人間に大きな恩恵を与え続けてくれています。澄んだ空気や、きれいで豊かな水を頂いています。そして土砂崩れを防いでくれたりと、人間生活に多大な恩恵を与えています。だからこそ、私たち林業に携わる者は、出来る限り自然を大切にしたいと思います。大きな面積の皆伐は避けたいものです。

 熊野の森を歩くと、おそらく誰もがそんな思いになるのではないでしょうか。

 是非、熊野の森へたくさんの人に来ていただきたいものです。

 

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